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「サン・サン・サン・ロック」を聴いて

ものっそ叫び隊である。

たんこさん個人で言えば、もうそろそろ持ち曲300曲に到達する勢い(弊社調べ)だが、今まで20年近く彼の音楽を聴いてきた私が感じるのは、この作品が文句なしに今までの作品の中でベストな一枚だという事。

これまでの作品を聴いてきた人にとっても、間違いなくこれまでの作品よりも総合的な楽曲のレベルが上がっていると頷ける出来だろう。

当然だが、それは決して彼一人の力ではなく、ドラム(坂本氏)、ベース(久保氏)両氏の音楽的・技術的貢献が大きな原動力となっている。

技術的な側面から見ても、それぞれ一聴するだけで相当高度なレベルだと感じさせる作品である。

専門外なので、正確な事は言えないのだがベースはフレーズ、リズム、キメが細かい部分に至るまでよく練られていて、各曲のベースラインだけを追いかけていても十分に聴きごたえがあるものとなっている。

そのせいか、あくまでも個人的にではあるが「この部分、もう少しベースをフューチャーしてもいいのにな。」という贅沢な不満が所々に存在してしまった。

ドラムについてもその安定したリズム、緩急自在のテクニックは勿論、楽曲の個性や展開を存分に引き立たせる事に成功している。

また前作までと聴き比べてドラムの音についてはかなりの改善が実感できるものとなっており、録音環境の充実や機材、ノウハウへの投資度合いが体感できるものとなっている。

 

このアルバムについて、ありきたりな言い方を用いればまさに「聴けば聴くほど味の出るアルバム」である。

聴けば聴くほど新たな発見や味わいがあり、鳥肌の立つ回数も増えているのが現在の私である。

総評として言えるのは、曲自体の良さは当然として、そのアレンジ力が圧倒的だ。これは数多のライブ、そして何より「ものっそ叫び隊」の各メンバーとの音楽的な切磋琢磨と意見の激突が蓄積、集約された結果であろう。

極太のロックもありながらポップでもあり、メンバーとものっそ叫び隊を取り巻く人達の人生や何気ない日常への切なさや希望、そしてポジティブな青春賛歌を歌い上げている。

何より本作ではアコースティックメインのスローテンポなバラード曲の色合いが薄まった印象で、ロック色の強い作風となっている。そしてそれが、ものっそ叫び隊が現時点で目指している方向性を表していると言ってもいいだろう。

 

このアルバムの歌詞を通して感じるのは、たんこさんが今までの人生において少しづつ培ってきた、熟成させてきたその経験と「青春観」とでも言うべきあっけらかんとした主張であり、「皮肉に笑いながら、時に真剣に取り組みながら人生を可能な限り楽しんでやるぜ!だから一緒に行こうぜ!」という熱く軽快なメッセージだ。

多分これは今までのアルバムでも共通して感じてきた印象、メッセージであるが、それをこのアルバムでも再認識させてくれる。

 

私は稚拙ながら何曲かのギターパートで参加させてもらい、その報酬に数十枚の完成したCDと高額なエフェクターを頂いた。

既にリリースから数ヶ月が経とうとしている今、いまだ仕事中にハードリピートしている私が今更ながら各楽曲について思いつくままに感想などを書いてみたいと思う。

これは、たんこさんに依頼されたわけでもなく、単純な私の「このアルバムについて感じた事を書き残しておきたい。」という欲求に基づくものであり、リスナーとして感じた事を書いただけで、ものっそ叫び隊メンバーその他関係者に忖度するものではない事(要するに辛口な意見やトンチンカンな個人的感想・想像、意味付けもある)をお断りしておく。

全般的に「お前、何様だよ。」という批判を前提に書いているが、どうか生暖かい心でもってご了承頂きたい。

それでは行こう。

 

1.「自慢したい」

現時点でこのアルバム一番のお気に入りである。多分、全世界で1,2を争う勢いの回数を聴いているだろう。思わず風呂場で湯船に浸かりながら、通勤中の電車の中で外の景色を見ながら、バイクで夜の246を走りながらフレーズを呟いているくらいだ。それくらい味わい深い歌詞を搭載した曲である。

ちなみにこの曲を口ずさむ時は「自慢しない」という感じに否定形で歌うようにすると自虐風な替え歌に様変わりして一曲で2度楽しめるのでオススメである。

 

この曲は、「自慢したい」というフレーズに紐付いた「○○したい」という特定のフレーズを連呼する、たんこさんの作る曲に比較的多く見られるパターンだが、この曲でそのイディオムが完成の域に到達したと思われる。それほどに完成度が高い。

アレンジ、曲の展開も素晴らしい。そしてなにより感じるのは自分の事を「自慢したい」という、ともすればネガティブに捉えられがちな人間の欲求やエゴを明るく、そして皮肉交じりに訴えかける歌詞である。

これだけ「自慢したい」というテーマについて、人間欲求の存在を掘り下げた歌詞の文学的貢献に賛辞を贈りたい。まさに金字塔である。

この曲のハイライトはやはりブレイク後の「機織るとこ~」から始まる部分だろう。ここで全身に鳥肌が立ち、「ただただあなたに認めてほしくて。」で、この曲でたんこさんが伝えたかった本意がガツン!と心に入って来て、人がなぜ「自慢したくなる」のか、その意味を知るのだ。

正直この部分で私は毎回仕事の手が止まり涙が出てしまう。アレンジ的にここで重厚なストリングスが入ったら涙腺は崩壊していた事だろう。危なかった。

「自慢したい」という人間のエゴとも言える行動の理由をここの部分でリスナーが知ることによって、それまでの「自慢したい」という内容が、違う印象となって響いてくる。

それまでは自己満足的に不特定多数の人達に向かっていた「自慢したい」という欲求が実は「自分にとっての大切な人」へ向けられたものだったのだと気づくのだ。

その大切な人が恋人なのか伴侶なのか子供なのかはそれぞれだろう。ただ、その顔を思い浮かべながら聴くとたまらずグッと来てしまう。

以上の理由から歌詞の構成についても極めて入念に練られたと思われる楽曲だ。この一曲を聴いただけで本作は作詞の面においてもこれまでの限界を突破したという印象を持った。

ただ、この曲はこういった文学的な味わいだけでは勿論無く、たんこさんお約束の遊び心も存在している所がニクい。

エンディングのゲストによる合いの手には、涙した私の感情をリセットさせ、次に始まる曲をフラットな気分で聴けるようにするという効果がある。

そして、「自慢したい」という欲求は何も自分だけじゃなく、君の中にも存在してるんだぜ、というメッセージも含有されているような気にさせる。

何はともあれ、この曲は齢四十五となった私の心に残る名曲である。

 

2.「根幹ストライカー」

歌詞の内容は意味深だが、素人には分からない感じだ。勿論私は素人である。

テンポが途中から変わるので、エディットが面倒だったのかなぁとか合わせるの大変だったんじゃないかな、なんて想像した。きっとそれは事実だと思う。

でもって、ここでもたんこさんのアルバムでこれまでにも散々活用されてきた「ボーカルのフレーズをLR交互に振りながら聴かせる」手法が見られる。

思わず「あー、これこれ。」と思わせる。

この曲のギターソロはアルバム中でもベストではないかと個人的には思っております。

 

3.「20年間生活」

一聴して、たんこさんがライブをこれでもかと繰り返してきた経験が生きてるなぁという感想だ。

Aメロでじっくり火薬を詰めてから爆発させるという手法は、ライブで盛り上がるための経験則、そこからの絶妙なアレンジという感じがする。

そして、この曲の印象を決定づけているのは、このAメロの微妙で絶妙なコード進行から醸し出される空気感と接続部分でR側に聞こえるギターではないかと。

こういう様々な小技が本作品を通して繰り出されるのだが、単純に「腕を上げてるよなぁ」と思わずにはいられない。

前作から8年間の時間は決して無駄ではなかったのだなと納得させるだけの出来である。

 

4.「突然アンカー」

たんこさん得意の競馬ネタだろうか。

比較的シンプルな構成で、ギターのリフ、ソロが良い味を出している。

 

5.「ドラゴンケン氏」

たんこさん得意の友人知人ネタ曲の最新版。

「自慢したい」と同じく、ここでは「○○ぜ」という語尾で一貫した歌詞となっている。

同じような調子の歌詞が続くのだが、全く飽きさせる事がなく、巧みな構成とアレンジが歌詞のシンプルさを補ってインパクトのあるものとしている。

ベースラインが秀逸である。

 

6.「88ブギ」

アルバムのカラーはロック色が強いものとなっているが、少し趣が変わり曲名にあるようなBoogie、Jazz色も香る曲である。

「ものっそ叫び隊」の振り幅の大きさを如実に表していると言っていいだろう。

ここでもリズム隊の演奏技術の高さが伺えるので、必聴である。

 

7.「オンザロックがお好きでしょ」

この曲はマジで唸った。完成度が凄い。

他の曲と比較しても相当に細かい所まで神経を尖らせて作られていると思わせる。

曲中で前触れ無く流される店長らしき人との会話の模様は、遠くはなれても相変わらず変わらないたんこさんの人柄を伝えるのに十分な役割を担っている。

店内の雰囲気や、たんこさんの表情も目に浮かぶようである。

娘さんのものと思われる声が曲中僅かに差し込まれているが、これがこの曲を一気に引き締めている。

この掛け声風の「セイ!」という一言をこの部分に挿入するセンスは脱帽と言うしかない。

Aメロとサビでの曲調に合わせた声質の使い分け、エンディングの各パートが入り乱れた感じが職人技と言うべきレベルで融合されている。

これは長年一緒にやってきたバンドメンバーとの完璧に調和した技術力の賜物であろう。

レコーディング・編集にも相当な時間を要したのではないかと容易に想像できる至極の一曲である。

 

8.「白銀を滑る赤」

今までたんこさんが作ってきたPOPな曲調を引き継いだ正統派な曲。

とても聴きやすく、それでいて危機的状況における哀愁がそこはかとなく感じられる一曲だ。

本楽曲では様々なドラムパターンが繰り出され、突然の豪雪で困惑する様子と、そこから脱出すべく決心を固める様子がドラムパターンの変化によって見事に誘導され表現されている。

私はソロギターのパートを弾かせてもらったが、たんこさんの編集がいかに凄まじいレベルなのかをまざまざと見せつけられた。

何パターンかのフレーズを録ってデータを送り、そこからはたんこさんにお任せしたのだが、正直もうちょっと時間かけて弾くべきだったかなと多少の後悔が残る。

まぁこれが実力なので仕方ないのだが。

正直、このソロをもう一度弾けと言われても「無理。」と返す他ない。というか弾いてない。

 

9.「ドンマイ・レディオ」

アルバム中盤を飾る、小気味よく明るい曲調。とても聴きやすく耳に残るフレーズ。

ポジティブな歌詞とメロディが個人的に好きで、この曲もよく口ずさんでいる。

最後のサビのフレーズがお気に入りで、仕事中にも関わらず無意識に「ドンマイレディオー♪」と合いの手を入れてしまう。

 

10.「ホッピーラヴ」

ホッピーへの溢れる愛が感じられる一曲だ。

この曲が秀逸だと思うのは、単なる「ホッピーが好き」という個人的趣向を並べただけではなく、その愉しみ方、特徴を指南するかのような歌詞の内容である。

シンプルなアレンジだが、耳に残るフレーズ。

「ホッピーラヴ」の連呼は、ホッピーに対する愛情を感じさせる。

思わずThe Beatlesの「With a Little Help from My Friends」を連想してしまうのは私だけではないだろう。

クルマでも聴いているので、無意識に子供たちも口ずさむ印象的なフレーズである。

 

個人的には、ホッピーを飲んでいる時ではなく、居酒屋でホッピーを飲んだ帰り、夜風に当たりながら家路を歩く時にふと星空を見上げて思い出す優しい曲である。

 

11.「電気のROCK」

ミドルテンポで続いた落ち着いた雰囲気を断ち切るように、ここからアップテンポの曲達が幕を開ける。

まるでレコードのA面からB面へ裏返したような雰囲気の転換を想起させる。

ディストーションの効いたベースと破壊的なギターが印象的だ。

 

12.「ラード・ミー」

前曲から引き続き間髪入れずに突入する手法が見られる。

スピード感が増してアルバム全体を通した時に、中盤の盛り上がりを演出するのに成功している。

「電気のROCK」と同じくAメロでボーカルにエフェクトをかかっているが、破壊的なスピード感の創出に成功している手法だ。

 

13.「ど~だ?シャッフル!」

「白銀を滑る赤」に続き、この曲でもギターで参加させて頂いた。

たんこさんからのオーダーは「BOOWYのギターみたいな感じ」というものだったが、全くの門外漢なためYouTubeで小一時間聴きまくった。

迷いながらオケに合わせてつらつらと弾いたフレーズをまとめて渡したが、それらが曲を通して流れる事となった。

これも、聴く度に私のギターが歌を邪魔しているのではないかと猛省する一曲である。

 

14.「インディ・ツアー」

この曲もサビが印象に残る。気づくと口ずさんでいる一曲だ。

タイトルの「インディ・ツアー」がどういう意味を示しているのかは分からないが、きっとホームである四国を抜け出して海を渡りライブを行った事を歌ったものであろう。

ライブを多くこなすアーティストのほとんどがそうであるように、ライブツアーの終わりには熱狂と共に、ある種の淋しさがメンバーの中にも広がるのであろう。

こうした、自身のツアーについて振り返る楽曲というのは、今までにも沢山のアーティストが作ってきた。

Mr.childrenの「1999年 夏 沖縄」などが良い例である。

 

この曲も、そうしたライブの興奮が過ぎ去った後に残る寂しさと次なるツアーへの期待・希望がしみじみと感じられる秀曲である。

 

15.「お世話になりやした」

「7.オンザロックがお好きでしょ」と並んで、この曲も鳥肌立ちまくりな一曲。

何より曲の構成に拘りまくっているという印象。ものっそ叫び隊が次の境地に向かって道を切り拓き初めたんだなと思わせる。

そしてサビの破壊力がアルバムを通して1,2を争うレベルだ。まさに根幹にガツンとクル。

ただお怒りを覚悟で書くが、これだけ焦らされたんだから出来ればもっとこのサビを聴きたいと思った。

そしてエンディングもこのサビの迫力のまま終わって欲しかったなぁ。というのが未だに心に消えず残っている正直な感想だ。

 

この楽曲は何か次のアルバムへの試金石的楽曲という気がしてくる。

ものっそ叫び隊が次作で示す新しいロックの形の原石という気がしてくる、そんな不思議な一曲である。

 

16.「世界で一番の小さい花」

「7.オンザロックがお好きでしょ」「15.お世話になりやした」に続き、短いながらも本作で本格化した感のある「ロックオペラ」調の壮大な曲だ。

曲後半に向けての目まぐるしい展開が本当によく出来ていて、前曲と同じく次作への期待が高まる一曲だ。

きっと次作ではピアノ、ホーン、ストリングスのセクションが必須となるに違いない。

 

17.「時計」

可愛い声から始まるこの曲では、私もギターで参加させていただいた。

コーラスの終わりに、たんこさんの「…できた…。」という一言が、絶叫オフィスでの録音風景を想起させて微笑ましい。

1分という短い曲だが、アルバムを通して聴いた時に、良いアクセントとなっている。

 

18.「タクシー・ゴー」

全般的にギターが良い。特にギター・ソロが素晴らしく、このまま教則としてコピーしたくなる出来である。

ここでも、「もうワンコーラス多くソロが聴きたかった」という渇望感が湧いてくる。

 

リフも秀逸だが、同じリフでも微妙にピッキングやミュートのニュアンスを変えている所がニクい。

また、ベース&ドラムのリズムセクションにおける円熟のドライブ感が鳥肌モノである。

 

7曲目の「セイ!」に続き、ここでも娘さんの声と思われる「よし!」という締めの一言が差し込まれている。

実質的にはアルバムの最後を飾る曲だが、後味の良いエンディングだ。

個人的には「お世話になりやした」もしくは「世界で一番の小さい花」辺りで壮大な世界観を創出して華々しくエンディングを迎えても良かったのではと思われる。

ただ、それらの楽曲を抑えてラストに配置されるだけはある、納得の極上ロックナンバーである。

 

19.「えせドラゴン(DEMO)」

長めのブランクから始まる本楽曲は、ライブ中にたんこさんが機材トラブルなどで中断してしまった時に演奏される曲との事。

ある意味、飛び道具的な意味合いもあるのかも知れない。

 

20.「さようなら(LIVE)」

いつものたんこさん節が炸裂しているポップでロックな一曲。

と思ったらシャウターズ時代の曲との事。なるほどと頷きました。

このアルバムの最後を飾る曲に、ある意味相応しい感じもする、爽やかな後味を残す一曲だ。

夏の終わりのそよ風が吹く夕焼けの中、仕事からの帰り路に思わず口ずさんでいたのを思い出す。

 

 

以上、ものっそ叫び隊による3rdアルバム「サン・サン・サン・ロック」の独断全曲レビューでした。

確かたんこさんは「CD売れたら(財布に)入れてええよ。」と言っていたと(勝手に)認識していますので、もしCDが欲しい方は私まで。

希望小売価格は2000円です。

CDの売上金はその全額を弊社の口座から国際協力NGOワールド・ビジョン・ジャパンを通じて世界の子どもたちのために寄付させて頂きます。

 

ものっそ叫び隊は今後ライブ活動と共に次なる4thアルバムへと曲作り、レコーディングに入ると思われるが、きっといつかこの「サン・サン・サン・ロック」を凌駕するアルバムを世に放つことだろう。

ただ、ここまでの完成度を誇るアルバムを凌ぐ作品を完成させるのは、大変なプレッシャーと制作能力が問われる試練となる事は想像に難くない。

是非とも、本作で培ったものを活かしつつそれを凌ぐ作品をリリースして欲しい。

そうして次作を心待ちにしながら、今日も私はこのアルバムに収められた極上のフレーズを口ずさむのである。

 

初冬の二子玉川事務所にて

米蔵

社会主義とは何か。

なんでもそうですが、偏った制度、見方、基準は、その理想がどれだけ高邁なものであっても、「過ぎたるは及ばざるが如し」の状態になってしまう事が避けられない運命にあるような気がします。

現在の日本経済は、長年の「新自由主義」的な政策に大きく舵を振り切ってしまった結果、自由の名の下に過度の格差や諸問題が発生しているんじゃないかと、いろいろな人達が言っているわけですが、そんな中、あの三橋氏がブログや著書で「社会主義」というキーワードを出してきたので、「お?」っと思ったわけです。

社会主義って言ったら、一番に思いつくのはソ連、コミンテルン、マルクス、共産党、中国、北朝鮮、チャウシェスク、独裁、粛清、虐殺…とか、そんな単語ばかりで、全然良いイメージがありません。西側の国に生まれ育ったからだと思いますが、正直申し上げて、そもそも

社会主義って何だ?

と思ったのでした。

自由主義や資本主義の対極に社会主義や共産主義というものがあるとして、現在の日本が極端な自由主義、資本主義に偏っているせいで様々な歪みが生まれているのだとしたら、三橋氏の言うように「もう少しだけ、社会主義的な政策を取り入れてもいいんじゃないか?」という提案には、何となく納得できるような気がするのです。

案の定、「社会主義だなんて、やっぱりあいつはコミンテルン!」とか言う人もいて、逆にこれはちゃんと「社会主義」というものについての認識を持っておかないと、現状の混迷を解決するための手段は見えてこないんじゃないかと思ったわけです。

保育所が必要なのはわかるけど、そのために公共事業費を削減するとか、もう何を言っているのか分からない政治家の暴走を食い止めたい、無くしたいわけです。

もしかしたら、社会主義ってのは、それ自体はマトモな思想・制度であって、社会主義を採用した国家が崩壊したり、経済的に困窮しているのは、その国も西側の資本主義を採用した現在の国々と同じように、一つの思想・制度に極端に「振り切った」結果なのではないかと。

人間て、一つの主義・主張を採用すると、なぜか極端にそちらの方向へ突き進んでしまって、いわゆる「中道」「丁度良い所」というものにバランスできない生き物なんですかね。

 

そんな事を考えていた折、こんな本をamazonで見つけたので、読んでみました。

 

社会主義って言うと、条件反射的に「コミンテルン!」と叫ぶ人がいますが、そういう人向けの本かも知れません。

で、読んでみると、予想した通り、もともとは産業革命の結果、行き過ぎた資本主義で生まれた格差問題を解決するための手段として、マルクスやエンゲルスが考えだした制度という事らしく、欧州では社会主義政党も行き過ぎた自由主義へのカウンターとして市民権を得て、実際に議席を取ったり、国家元首を出したりしていて、「社会主義といえば反体制」というのは、世界的に見ても日本特有のものらしい。

著者もその辺について嘆いていて、日本で戦後、社会主義への認識、社会主義政党が偏向していく過程を「良くわからないままの欧米追随主義」「何がしたいのか意味不明」と批判しています。

なので、社会主義という単語それだけを取り上げて「あいつはアカだ!」というのは、まさに戦後日本の「よく理解していないままに欧米で流行している思想を追随してしまった結果、暴走して何がしたいのか分からない状態」の一部日本人と同じレベルではないかと思うわけです。

まぁ社会主義者=反体制というのは、「日本においては正しい」というべきかも知れません。

 

書中では、イギリスの産業革命から発する社会主義の発展と経緯が書かれていて、それ自体は至極納得できる内容です。
まさに当時も現在の世界と同じように資本主義、自由主義、経済合理性を追求していった結果、格差問題や労働問題が勃発して社会問題となっていたという事です。

そして、そういった自由主義的な政策-特に経済政策-は、必ずしも人間を自由にしなかったという事実も同一であって、むしろ、21世紀の世界は、資本主義に替わり得る対抗軸を探し求めているようにさえ見える。

当時、その対抗軸として生まれたのが社会主義思想だった。

 

以下、個人的にアンダーラインな部分を紹介。

社会主義とは、生産活動が私的な金儲けの手段と化さないよう、それを理性的な意思決定の下に統制することである。

決して、私有財産そのものを否定しているわけではない。

搾取から生まれた私的所有が非難されているのであって、正当な私的所有までもが否定されているのではない。

この辺は現在の共産主義国家による、不当な弾圧・抑圧によるイメージが、投影されているのかも知れない。もともとの社会主義思想というのは、あくまでも生産手段となる資産を共有財産にしようというもので、圧政や民衆弾圧のための思想ではなかった。

 

国家権力による統制を、国家権力による抑圧と混同してしまうと、社会主義の意味は理解できない。

なんでもかんでも、国家による規制を取っ払えとか、国家による管理は不要だとか批判するのは、そもそも社会を良くしようと思ってないって事ですね。

 

自由な労働市場は、あらかじめ不平等なものにならざるを得ない。

こんな事、はるか昔から人類が得ていた智慧なのに、未だに純粋自由主義を礼賛している人達が沢山いるという事実。

 

金儲けや私利私欲から開放された汚れなき理想郷など、この下界には実在しない。

マルクスの共産主義と伝統的な理想郷願望との混同は、21世紀になっても続いている。

フランス革命からソ連成立までの経緯についても詳細に書かれているようだけど、知識のない私にはちょっと難しい…。もともと労働運動から始まった思想の流れが社会主義国家の成立につながっていく…という事みたい。マルクスの考えていた社会主義とは異なるものだったって事かな。

 

世界で最初の産業革命がイギリスで起こった事により、世界の工場としての地位を確立したが、そのことによって、実際に生産活動を担う人々が豊かになったわけではなく、むしろ困窮していった。

歴史的事実に照らせば、自由や人権といった減速が浸透するに連れて、貧困層は保護を失っていった。

王侯貴族の統治下にあった旧体制時代には、貧困層に対して、むしろ積極的な公的支援がなされていた。

固定的な階層関係の下で福祉的な制度を実施すれば、上から下への施しにしかならない。

福祉は人を怠け者にするといった、短絡的な発送を鵜呑みにしてはならない。そのような事態は、格差が固定化している社会のみに妥当する事だからである。

労働者階級の貧困が自己責任であったとしても、それに伴う弊害は社会全体に及んだ。

単に上からの支配を除去した所で、真の自由と平等は実現しなかった。

21世紀の先進国において、性別で雇用の機会に差があるのは、許しがたい差別であろう。だが、自分たちの時代の価値観で、過去の歴史を意味づけてはならない。雇用機会における男女の区別は、決して旧弊な差別の残滓ではなく、かつては女性解放の成果だったのである。

庶民層の女性やこどもは、その意志や希望とにかかわりなく、過酷な賃労働に従事しなければ生きて行けなかった。一連の工場立法(※1)は、そのような状況から女性や子供を解放する措置だった。
※1 主にイギリスで制定された、女性や子供の労働について規制する法律

1802年:徒弟の健康及び道徳法
1833年:一般工場法(9歳以下の児童の労働を禁止。16歳以下の者の夜間労働を禁止、労働時間を12時間に制限。)
1842年:鉱山法(成人女性の地下労働が制限)
1847年:工場法(成人女性の労働時間が一日10時間に制限)

資本主義は何らかの形で-程度の差が大きいにしても-政治機構の統制を受けていたことになろう。

当時のブルジョワジーが抱いていた「福祉への関心」は、あくまでも、世の中の仕組みや制度を変えること無しに、出来る限り私的な行為で貧困問題に対処することだったのである。慈善活動への支出は、そのための必要経費であった。

慈善組織協会は、貧困を、社会や経済の問題とは見なさず、個人の道徳的責任に還元していた。

 

もちろん、自由主義や資本主義によって得られるメリットは沢山あるが、その反面で利益追求を是としたために、失ってきたモノがあるという事ですね。

最後の方は小泉元首相の「自己責任」ブームを連想させます。

そして、一見、不自由な社会だと思われていた封建制度における主従関係も、貧困への「保護」という点については、労働者の貧困を自己責任などとは捉えず、「保護」や「援助」は支配層における文化として根付いていた事が書かれています。

そういった文化も、産業革命から勃興するブルジョワジーの要求によって、無くなっていき、同時に貴族などからの「保護」も必要ないという時代になっていく。

当然、こういった意見も「今の時代に生きている立場からの見方」なんだが、一概に社会主義的な社会制度も悪とは言えないし、その逆も然りだろう。

民主主義、自由主義、資本主義を採用している日本その他の国でも、程度の差こそあれ、社会主義的な制度は残されているわけである。

 

誤解を恐れず言うならば、大きく偏ったために、歪が出ているのなら、逆の思想について考慮してみるのは、バランスを取るために必要な行動なんじゃないかと思うんだが、どうだろうか。

【読んでみた】日本の歴史

娘がマンガ好きな事もあり、昔から歴史マンガは社会科の勉強にも役立つという事を聞いていたので、昨年買ってリビングに置いておいた。

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まぁどうせ退屈とか言って、すぐに飽きるかなと思ったんだが、意外にも面白いと感じたらしく、特に飛鳥時代から戦国時代までの歴史が好きになったようで、何度も読み返していた。

で、私も昨年から少しずつ合間を見て読んでいたんだが、途中娘と同じように何度も同じ巻を読みなおしたりして中々最後まで読み切れてなかったんだが、先程ようやく全巻読了しました。

日本の歴史については、以下の本で直前にざっと読んでいた事もあり、マンガによって視覚的な情報も追加された事で大変楽しく読めた。

 

この角川のシリーズは、巻毎に描いている漫画家が異なり、重複して登場する人物でも異なる顔になっている事がある。

それでも、日本の歴史について大枠を把握するには十分な内容で、大人でも楽しめる内容。

ただ、最後の昭和時代~平成の描写については、これはどうなんだと思うような内容もあるが、まぁ仕方ないのかも知れない。

逆にそういう部分は大人が解説して補足してあげる必要がある。

あと、昭和からの解説は他の時代とは時間の長さが短いかも知れないが、情報量的には圧倒的なので、できれば2冊分くらいの分量にして欲しかったというのはあるな。

まぁそれをやってしまうと、マンガの領域を出てしまうのかも知れない。(小林よしのり氏のマンガのように)

 

このマンガを娘が読み始めてから、我が家では歴史クイズを幼稚園児の息子も交えてやるほどになった。

私は相変わらず年号が覚えられない…。泣くよウグイス…いい箱作ろう…、あと何があったっけw

 

こういう学習漫画は日本史の勉強や受験対策における概要の把握にも役立つと言う。

何より、年号をまる覚えするのではなく、その事件や出来事の経緯を説明できるようになるのが大きい。

そこから広がっていけば、自分が生まれた国に対する理解や愛着といったものが増していくように思うのです。

 

13000円で、家族全員がずっと楽しめる。

これはオススメです。

「坂道のアポロン」がヤバイ

絶叫オフィス祭りでギターを再開した私ですが、またジャズなんかを聴き始めている。

聴くだけで弾けない、二十数年来超えられない個人的な壁。

で、仕事や練習の息抜きに何かジャズを題材にした映画とか無いかなとツタヤで探して見つけたのが「坂道のアポロン」というアニメだった。

普段、アニメとか全く見ないし、宮﨑駿作品も一つも見たことないくらい興味が無いデス。

ただ、まぁジャズって事なので、軽い気持ちで見出したんだが完全に予想を裏切ってくれた。

 

ガチで「ジャズ」のプレイヤーを目指して奮闘するような物語ではなく、高校生がジャズをきっかけにして青春を謳歌するという感じで、正直、最初は舐めてました、すぐに停止ボタン押すと思ってました。

なのに、なぜか

 

毎話、号泣待ったなし状態です。

 

なんなんだ、この切ない心臓の鼓動はw

「俺にも、こんなにも切なくて激しくて光に満ちた青春が、いつかあったのかな。」と。

ティッシュがズタボロになるまで泣いてしまう。

 

主人公の「ボン」に自分を重ねて見てしまって、あぁ、誰しもこんな風に恋愛に対して思い悩んで勘違いもして見誤って駆け抜けていたんだと、懐かしい気持ちにもなります。

まぁ全12話で完結させる構成上仕方ないのかも知れないが、最後の方はこの主人公がちょっと狂いだしてきて、そこだけが冷めてしまった。

 

そして、物語に負けじとも劣らずなのが、菅野よう子さんの音楽。

「坂道のメロディ」「アルタイル」どちらも素晴らしい。

各話の最初と最後に毎回挿入されているんだが、すっ飛ばす事もなく、毎回聴いていた。

思い出すだけで目が潤むなぁ。

何か心が洗われたような感じだ。まさに誰かに恋でもしているかのような…。

 

今更かもだが、オススメです。

【読んでみた】史上最強の哲学入門

以前からamazonのレコメンドに出てきていて、レビューとか読んでも面白そうな本だなとは思っていたんだけど、ようやく買って読んでみる事が出来た。

私はこの本で起用されている「グラップラー刃牙」ってのを全然知らないんだが、それは全く関係なく、内容が最強に面白かった。

なんというか、この「哲学・思想についてテーマ別で時系列的に書く」という、この手法が大変分かりやすい。
そして「対戦」という前提があるため、単に時系列に並べた歴史教科書的な書き方よりも、それ以前の思想と対比させながらなので面白く読める。

勿論、飲茶氏の書き方も大変読みやすく、分かり易いのだ。

内容は大きくテーマが分かれていて、以下のような感じだった。

第1ラウンド:真理の「真理」

第2ラウンド:国家の「真理」

第3ラウンド:神様の「真理」

第4ラウンド:存在の「真理」

こんな感じである。

どれもこれも、時系列的に過去から現代へと、有名な哲学者や科学者の思想を取り上げて、徐々にその哲学が覆されたり、発展したりという書き方で、その哲学をわかりやすく説明してある。

例えば、真理の「真理」はこんな感じだ。

プロタゴラスが「絶対的な真理なんかない」と言えば、その後のソクラテスが「いやいや、俺は死んでも真理を追求するよ」と反論し、だけどその後も真理と言えるようなものは見つからず、いつしか信仰に走るようになった中世を通り抜けて、デカルトが「もうちょっと闇雲に考えるのではなくて、方法論的に真理を追求しないか。とりあえず、これだけは疑いようがないというものを見つけよう。」と言い出して、結果「何もかも疑ってみたけど、疑っている自分だけは疑えないよね。」となって、一応の出発点を見つける事はできたんだけど、それじゃ、その「原理」からどう発展して真理に至るの?という部分で、結局「私の存在は疑えないのだから、私の認識も疑いようがなく。なぜ認識が正しいかというと、それは神様が私を作ったからなんだよね。」と、なぜか斜め上の方向へ突き進んでしまって、なんじゃそれな展開に。
その結果、ヒュームが「そもそも、デカルトの言ってた”私の認識とか存在”とかって、何なの?認識なんて結局のところ、経験や知覚の集合体じゃん」と反論。
火が熱いのも、太陽が眩しいのも、全部本当にそうかどうかなんて分からなくて、ただ単に「経験上、そう感じてるだけ」なのかも知れないじゃん。と。
そこで現れたのがカントで「個人個人の経験から認識しているというのなら、なんで異なった経験をしている人同士で共有した認識を持つのだろう」と反論。
それを発展させ、「やっぱり人間は生まれつき持っている共通の認識というのがあって、それによって異なる経験をしてきた人間同士でも共通の認識を持つことができるんじゃないだろうか」と結論した。
ただ、結局の所これも「人間同士では当てはまるかも知れないが、異種族や宇宙人となると、それは違うんじゃないか」となって、やっぱり真理ってのは人間が規定するものであって、今まで真理と言っていたものは、「人間にとっての真理」なんだよね、という所に落ち着くのであった。
しかしながら、人間にとっての真理があるという事は分かったが、どうやってその真理を見つければ良いのかという方法論は分からないままだった。
そこにヘーゲルが現れて、弁証法の果てに真理へと到達できるはずだと提唱。それは歴史にも当てはめられて、人類の歴史・社会というのは試行錯誤の末に段々と良くなっていくものなのだという考え方となっていく。
しかしながら、このような考え方は「いつか真理や理想の社会は見つかるよ」という事になり、いつになったらその真理や理想社会が訪れるのかは、誰にも分からないという事になってしまった。
そのような受け身の哲学姿勢に異論を唱えたのが、キルケゴールで、「そんな、いつ分かるか分からないような真理なんていらない、私は私だけの真理が知りたいのだ」と唱え始めた。
その後に現れたのが、サルトルで、「待つばかりではなく、自らの選択で未来を切り開くべきじゃないか。例えその選択が間違っていたとしても、それは自分が引き受けるべき未来であって、その選択と追求を止めるべきじゃない」と言い出した。これは当時の主流であった資本主義社会から、いつかもっとそれよりも良い理想の社会制度が出来るはずだという思想につながり、当時の若者をマルクスによる社会主義へ傾倒させる事へと繋がっていったとの事。
しかしながら、これに対してレヴィ・ストロースは、「そんな、人類が共通して理想と考えるような社会なんて、本当にあるのか?」と反論。
人類学者でもあったレヴィ・ストロースは、西洋人の影響を受けていない未開人やその文化に触れ、今まで理想と言っていたものは、西洋人が勝手に考えていたものであって、それは決して「誰にとっても理想である」とは決して言えないのではないかと唱えた。
この頃から、時代は混乱の様相を呈してき始めて、「何だか、真理とか理想の社会って人間の理性を基本にして求める事が出来るって近代の哲学者は言ってたけど、人間って結構愚かな存在だよね。」という空気になっていく。
ここから現代哲学が始まり、それまでの「信仰」や「理性」に頼って真理を見つけようとするのではなく、実践主義的なものを求めるようになっていく。
つまり、「真理とかどうでもよい、実際に人間や生活・社会に役立つことについて考えよう。」というプラグマティズムが発生し、その代表的な哲学者がデューイであった。

というような感じで、上乗せ上乗せで被せてくる感じ。
哲学史がストーリーになっているようで、非常に分かりやすく構成されています。

この他の「国家」「神様」「存在」についても同じようになっていて、特に「国家」の部分は、現在の日本社会の問題を考える上でも大変勉強になるように感じた。

 

そして、読んでいるうちに感じるこの感覚…。

小さい頃から、ぼんやりと一人で外の景色を眺めながら考えていたこと。

考えたって自分なりの答えしか見つからないし、それが何の役に立つのかと問われれば、全く意味がないような思索。

そういう、ある意味で「自由」な時間がその頃は沢山あったという、懐かしいような、なんとも言えない記憶を呼び覚ます。

もうこれは、人類のDNAに刻まれている問題提起、解決したいという基本的な欲求なんでしょうね。

 

一人でぼけーっと、多摩川の川辺で物思いに耽るために最適な本かも知れません。

【観てきた】「日本と原発 4年後」

先日、友人と飲みに行った席でいろいろと話していて、エロいお話から政治経済哲学倫理に至るカタい話までまぁいろいろ話したんだが、その中に原発に関する話題もあり、「日本と原発」という映画について紹介された。

今度、友人の会社で上映会をやるらしく、来ないか?との事だったので、それは良い機会だと思ってお願いしたのです。

で、帰宅後に「どんな映画なんだろう?」と調べていたら、上映会でやる予定の映画の続編が既に渋谷で公開されているとの事なので、早速仕事を抜けだして観に行ってきました。

「日本と原発 4年後」 監督:河合弘之

その筋では有名な弁護士の方らしく、原発再稼動の禁止を司法に訴えて活動されているようです。

で、それだけならば特段珍しくもなく、反対派の一人なのだろうという感じでしかなかったのですが、
わざわざお金出して時間割いて観に行ったというのは、超映画批評の中でのこんな一文を見たからだった。

この映画はそんな弁護士が、「これ一本で推進派の主張を完全に論破し、原発問題のすべてがわかるように」と作ったもの。脱原発派よりも、御用学者や推進プロパガンダに汚染された裁判官、一般国民、政治家、そういった人たちの洗脳を2時間強でどこまで解けるかという、壮大な挑戦というわけだ。

なんというか、正直言って「やっとこういう映画が出てきたか。」という嬉しさがこみ上げた。

今まで「うーん、いろいろ考えてみたけど、今直ぐ原発の稼働を全停止しろっていうのはマズイんじゃないかなー。将来的に代替エネルギーや廃棄物処理の問題が片付くまでは動かす必要があるんじゃないか?」という、自称”緩やかな脱原発派”だった私としては、それでも「推進派」と呼ばれてしまう部分があり、その推進派の論拠を喝破してくれる存在がやっと現れたかという気持ちでした。

以前は、小出 裕章氏の本とかも読んでみたけど、推進派を論破できるほどの内容じゃなくてガッカリした記憶がある。

この映画にも登場しますけどね…。

というわけで、映画館に行って、チケットを購入。

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まだ時間があったので東急の本屋に行って、監督の著書を購入。

時間まで読んで待ってました。

要するに、東電は責任を取ってない!原子力規制委員会はマトモな仕事をしていない!という感じで、それを裁判に訴える事で現在の再稼働の動きを阻止してやろうという事らしいです。

で、時間になり、そそくさと席について上映開始。

お客さんは平日の昼間とあって、30人ほどでしょうか。

小さな映画館なので調度良い感じです。勿論変な人とかはいませんでした。時間帯的に当然だけど、若い人はあまりいない感じ。

 

で、映画としてはよく出来ていると思いました。だってこれ、素人監督ですよね?

構成とかよく出来ていて、ちゃんと不快感無く観れるのです。

 

特に、所々「河合塾」と呼ばれる、推進派論破のための解説シーンがあって、これは良かった。

この内容は前掲の著書にも書かれていて、本を買った人は内容を後から確認できるようになってます。

「推進派の人達はこんな屁理屈を言って、再稼働の理由とするけど、そんなのはこうやって論破できるんだよ」講座です。

早速だが、ざっと列挙してみよう。そして、それに対しての私の個人的な感想などを書いてみたいと思う。

 

1.原子力ムラ

電力会社を中心とした政府・学者・銀行・関連企業等との癒着構造による、原発安全神話のプロパガンダや、総括原価方式への批判などでしょうか。

原子力村 相関図」などでググると、沢山画像が出てくるので、見てみるとわかると思います。実際のところ、この相関図を見ても、どんな風に「悪しき癒着」があるのか分からないのですが、正直この相関図を見て思ったのは

こんなん、どの大企業でも同じような構造なんじゃないの?

という事でした。
それなりの会社であれば、広報活動だってするだろうし、銀行から融資を受けるでしょうし、下請け会社との強固な結びつきもあるでしょう。
大企業ともなれば、電力会社に限らず政府・政党、官僚とのやりとりなどもあると思います。
なぜ電力会社だけが問題になるのか?

ここで、元経産省官僚の古賀茂明氏が登場するんですが、「電力会社には誰も逆らえない」的な事を言ってました。
確かに電気を止められたら大変です。
企業活動どころか、日常生活も困難な状態になってしまうでしょう。
だけど、「誰も逆らえないから、何をやっても許される、誰も批判しない構造だ。」というのは、飛躍し過ぎてるような気もしないでもない感じ…。
要するに、代替となる会社(消費者が購入先を選択できない)が無いから、言うことを聞くしかなくなるという事なのでしょうか。で、これを言い出した結果が、電力自由化の流れなんですかね?
私は別に東電の株主でもないし肩入れするつもりもなく、どうしても東電から今後も電気を買い続けたい!とか全く思っていません。
ただですね、「電力自由化で電気の購入先が選択できるようになって、イイじゃん!」とは全然思わないのです。

もし自由化されて、各企業が参入してきたらどうなるでしょう?
きっと他の企業・事業と同じように価格競争が起きるのではないかと思います。
価格競争が起きるとどうなるか?
電力会社はコストを抑えるために設備投資を抑制する他無くなります。
このコストは人件費かも知れないし、純粋な設備投資費用かも知れない。
もし、人件費を抑制するとどうなるか?当たり前だが優秀な人材は流出するでしょう。
そうなると「安全」という担保が希薄化するというのは容易に想像できる。
そして、もし設備投資が抑制されるとどうなるか?
これは「安全」ばかりでなく「安定した供給」という部分でもサービスの品質を毀損する事は免れないと思います。
実際、自由化されて価格競争が起こった結果、自分が購入していた先の電力会社が倒産とか撤退とかしたら、どうなるんでしょうか?
電力会社は発電だけではなく、送電も重要な仕事の一つです。
「今まで購入していた電力会社が電力事業から撤退したから別の電力会社に変更しないといけないけど、その会社の送電網はここに来てなかった…。」とか、そういう事があり得るのではないかという話。
実際にこんな事が起こったら、別の会社が送電網を引き継ぐなどして消費者の利便性を損なわないような措置が取られるとは思います。
ただ、その結果、今までと同じような品質のサービスが享受できるかどうかは起きてみないと分かりません。
これは携帯電話などで例えるとわかりやすいかも知れない。

こう考えると、確かに一社独占な状態であって、影響力は大きいのかも知れませんが、直接国民の生活や生命に関わるであろう「電力」という商品の「安全」と「安定供給」を担保するためには、会社が安定して経営できるように独占や総括原価方式という価格設定の方法を容認したり、場合によっては税金を投入するというのも、必要な事なのではないかと思うのです。
というか本来なら水道のように官がやるべき事なのかなとも思います。ただそれはそれで問題もあり、その上での試行錯誤の結果として「総括原価方式」という方法で安定的な経営と、それによる電力の安定供給を図るという結果になったのかと思います。

ってこんな事を書くと「こいつやっぱり共産主義者だったか。」とか思われるのだろうか…。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

という訳で、原子力ムラって言うけど、各企業の強固な結びつきとか、独占状態になるという事なども、こと「電力」に限った話で言えば、そんなに悪い事なのだろうか?
とも思えてくるという部分については、どうもこの相関図だけでは納得出来なかった感じが残念だった。

 

2.自己完結型永久エネルギー構想

まぁ確かにプルサーマル計画など、夢のエネルギー構想かも知れません。
技術的な問題が沢山あって、これって実際の所、制御が難しすぎて人類には無理なんじゃないの?と思われている事も事実だと思います。
だけど、推進派が言っているのは、その先の話だと思うんですよ。

別に、永久機関のような無尽蔵のエネルギー源が絶対に必要だなんて言ってなくて、国家の生命線の一つであるエネルギーの供給をいつまでも外国に頼ってばかりじゃダメだろう。という話。

一言で言うと「エネルギー安全保障」の問題ですよね。

現在の火力発電で使われているガスや石炭・原油等の燃料は、そのほとんどが外国から購入しているもので、これが万が一購入できない、もしくは値段が跳ね上がる、もしくは輸送手段が無くなるなどの事態が発生した場合に、日本はどうなるのか?
実際にそのような事態に陥って国内が混乱した経験もあるし、それが遠因で戦争にまで至った経験もあるというのに。

これだけ中東情勢や海上輸送上の問題(シーレーンの安全確保や中国による南沙諸島への攻勢等)があるにも関わらず、このような緊急事態を考慮せずに原発を即時停止しろというのは、あまりにも国際情勢に無頓着だと思われても致し方無いように思われる。

現実的には、もしそのような非常事態が発生した場合、日本国内に備蓄している分だけで、数ヶ月。
そして、海上を輸送中の燃料が無事に到着して利用可能になる事を含めても、現状と同様の生活水準・生産活動を保とうと思ったら、多分1年も持たないのではないだろうか。

日本のエネルギー安全保障の現状と課題

とかく脱原発の人達は、目の前の危険性ばかりを取り上げて批判する傾向があるんだが、国家レベルでエネルギー安全保障というものを考えると、どうしてもこのような「外的要因」について考慮せざるを得ない。
これについては、どのように考えているのかという部分についても、解説して欲しかった。

なので、純国産のエネルギーがあれば、別に危険を冒してプルサーマル計画とかやる必要は無いのかも知れない。
国産のエネルギーと言うのには、太陽光などの自然エネルギーなども含まれます。
勿論、メタンハイドレートとかが安定的に大量に供給できるようになれば、それはもう最高だと思います。
その時に初めて「原発の時代は終わった」となるのかも知れない。

この映画の中でも太陽光発電や風力発電を賛美するような描写(デンマークの洋上発電など)があったけど、それ自体は成功しているのかも知れないし、良い事なんだけど、それをそのまま日本でもやろうとした場合に考慮しなくてはならない地政学的な要因についても触れないとフェアじゃないような気がした。
要するに、日本とは違い、安定した偏西風と、遮る山などが少ないという意味での広大な平地の存在ですね。日本には台風などもあるし。

それと、安全保障という観点から言えば、太陽光発電に代表される自然エネルギーの供給面での不安定さについても、「それでも問題無い」とする論拠が欲しい所でした。
月明かりでも発電できるような月光発電とかあればいいんだけど、そこまでの技術はまだ世界的に見ても無いのではと思います。
日差しの少ない日や夜間、風の吹かない日、そんな日は「頼ることができない発電方法」となってしまう。
蓄電技術についても、原発の代替となるようなレベルで言えば、実用に耐えられるものはまだまだ先の話のようです。

原発なんて無くても自然エネルギーと水力火力でやっていけるじゃん、と言う人もいるんだけど、自然エネルギーについては、この「不安定さ」の克服が大前提という気がします。
そういう意味で、「原子力の安定的な供給能力というのは不安定なエネルギー源に比較して大きなメリットであり、代替となる安定的なエネルギー源を確保できるまでは稼働する必要性があるんじゃないか。」と推進派の人達は言っているんですよね。

停電のほとんど無い日本の電力事情というのは、そこに暮らしている我々にとってはもやは「当たり前」の環境になっているのかも知れないが、それは電力会社の人達の努力と技術によって支えられていて、もしそれが要らないというのなら、そういう環境を失った、その先の世界、状況というのを想像しないとダメなんじゃないかとは思います。

 

3.核兵器開発

原発でウランから生産されるプルトニウムには、濃縮した兵器級プルトニウムとなると3~4kgで核爆発を起こさせるだけの力があり、要するにこれが対外的な抑止力になるのだという主張を国会議員や新聞、元自衛官の原発推進派が取った事を批判しています。
昨今、中国がこれについて批判していたのは記憶に新しいところ。というか、やっぱり抑止力になっているんだなと思ったw

で、反対派としては、こんな核兵器開発のために原発を稼働するなんてトンデモナイという感じです。
その論拠としては、「世界で唯一の被爆国である日本が核兵器開発能力を持つなどということは断じて許されない」という事みたいです。
「世界で唯一の被爆国」というのも、今ではガチで(核実験のために)被爆されている国・地域の方々から「日本だけじゃないぞ!」と指摘されているようですが、反対派としては、そんな事は問題ではありません。

勿論、原爆の犠牲になった方々は大変な思いだったと思うし、苦しんだ方々も大勢いるとは思います。
だけど、いくらなんでも「原爆」と「原発」とを同じ観点で論ずるのは、どうなのかと思ってしまうのです。
これは逆に原爆による犠牲者の方々に対して失礼な気もします。

別に抑止力が必要ならば、プルトニウムを持つ必要もなく、単純に軍備を増強したり、日米安保の強化とかいろいろ方法はあると思います。
プルトニウムが抑止力になるからと、原発を稼働させ続けるというのは愚の骨頂のような気がしますね。ただ、上記プルトニウムの抑止力について指摘した人達は、原発稼働の副産物としてプルトニウムが生産されてしまうとしたら、それはそれで意図せずとも抑止力となるはずだから、強かに利用すれば良いのではないか。という事を言っているのだと思います。
いきなり「どうせプルトニウムがあるんだから、原爆作ろうぜ。」という話に飛躍して考えて批判材料にしてしまうのは、反対派としては避けなければならないし、安直な発想しかできないのかと逆に批判されるような気がします。

 

4.原発における科学・技術の進歩を問う

推進派がよく言う事として
「1回や2回の失敗で諦めてはいけない。失敗してもそこから改善し、更に良い技術を開発することで科学・技術が発展していくのだ。自動車や飛行機などもこれまでに大量の犠牲者を出しているが、諦めずに技術開発を行ってきたお陰で今日の恩恵があるのではないか。」
というものがあるそうです。ある意味で、これはこれで真っ当な意見だとは思います。
ただ、河合氏に言わせると、これは「個」の死であって、「種」の死では無いと。

確かに、飛行機事故などで沢山の犠牲者が出る事については悲惨だとは思うが、それによって人類が滅亡するわけではない。
あくまでも、その飛行機に搭乗していた人達や巻き込まれた人達に限定された犠牲であって、原発事故のような国家、人類への影響をもたらすものとは、次元が異なる、といういうような事でした。

私も個人的には、「何でもかんでも諦めずにチャレンジすべきだ」、とは思いません。
あまりにもリスクがあり過ぎるならば、やめといた方が良いという選択は場合により正しい判断だと思います。ただ、そう思うのも、あくまで「個人的には」です。
これ、リスクがあり過ぎるからと言って、やめてしまっても良いのだろうか?ある意味では、いま我々が安全で快適な生活を送る事ができているというのも、過去に生きた先人達がリスクを背負って多大な犠牲を払いながら築いてきた技術やモノのおかげです。
当然だが、原発の事故が起きるまでは、原発由来の電力の恩恵を享受しながら生きてきたわけです。
そういう意味で考えると、今ここで原発技術の発展が停止してしまう事によって、未来の日本人へ禍根を残す事にはならないだろうか?と。
まぁ、それは考えすぎかも知れませんが。

あと、これとは別に、あくまでも個人的に思う事があって、それは、原発事故における危険度や影響の基準について、というもの。
緩やかな反対派としてのこのエントリを根本から覆すような話なんだけど、「そもそも放射線て、どんだけ危険なのか?」という問題です。
ベクレル、グレイ、シーベルトという放射線量の単位は散々ニュースなどでも解説されてきたので、ほとんどの人はその違いについて理解していると思うんだが、
まだまだ「半減期」とか、そもそも放射線てのはどういうものなのか、という事については、それ自体が肉眼では見えないという事もあり、理解が進んでいないような気もするのです。
とは言え、私も理解は出来ていないのですが。

この映画の中でも、放射線量における発がん確率のグラフについて、「しきい値なしモデル」を採用するべきという主張があったような気がします。

しきい値のない直線仮説って何?

これを読むと、とにかく、「低線量でも影響が無いという事が証明されてない限り、安全とは言い切れない」という主張だという事が分かる。
ただ、そうは言えども昔からラドン・ラジウム温泉とかで人工的な低線量の被爆は身体に良いという事で、みんなそういった施設に行ったりしていて、それでガンになったという話は聞いたことが無いし、もし低線量でも身体に悪影響が出るという事なら、飛行機に多く乗る人は発がん確率が高まるはずだし、世界を見渡せば現在の福島を上回る線量を記録する場所・地域はいくつも存在する。
しかし、そこで何か特別な健康被害があるという報告は無いとの事。

2013-03-02 環境放射能調査 (ブラジル・ガラパリ)
世界の高自然放射線地域

また、半減期については、それが数万年にも及ぶ放射性物質については、「何万年も汚染されて人が住めなくなる!」という議論になりがちだが、数万年かけて放射線量が半減するという事は、すなわち単位時間辺りに放出される放射線が極端に少ないという事になる。
これはよく推進派が肩たたきに例えるんだけど、「1トンのパンチと、1回当たりの圧力が1kgの肩たたき1000回では、どちらが危険だろうか?」と。
受ける圧力の総量は同じなわけです。

実験するまでもなく、前者では肩が崩壊し、後者では人にもよるが肩こりが改善するかも知れない。
放射能についても、半減期が短いものほど危険であり、長期に渡るものについては、それほど危険ではないのではと思うのです。

【放射能】福島第一原発から飛散した主な放射性同位体(核種)全31種・放出量・具体的な人体への影響など
長い半減期の放射能は危険、という誤解

そう考えると、原発事故後の初動対応というのがいかに重要かと思うのです。
「とにかく逃げろ」というのは、津波に限った事ではなく、原発の事故についても同様という事ですね。
但し、その避難期間は長くても数ヶ月で十分であって、現在のような数年間もの長期間、避難するというのは、どう考えても放射能からの影響よりも、避難生活から来る苦労・心労の悪影響の方が勝るように思うのです。
実際、チェルノブイリの事故報告でも、その後の避難生活によるストレスが原因で亡くなった、もしくは病気になってしまった人の方が、放射線による影響よりも大きかったというような事が報告されていたというような事を聞いたような無いような。

映画の中でも、避難生活の苦労から自殺してしまった人達について取り上げられていましたが、当事者でなくても、「なぜなんだ!」という気分になります。
遺族は東電を訴えて、結果、東電には賠償金の支払いが命じられました。
しかし、これは東電を訴えるべきなのだろうかと思ってしまいます。
訴えるべきは、避難生活をいたずらに長引かせている政府なのではないか?と。
こんな事書くと、猛烈な批判が来そうだが、正直なところ、ニュースとか見ていてそんな風に思ったのです。

で、こういう事を鑑みると、果たして現在の福島は広範囲に避難しなければならない程に危険なのだろうか?とか、土壌汚染や汚染水の問題なども、もう少し冷静に評価する必要があるのではないかとも思えてくるのです。
福島に限らず、隔離された避難区域では、動物達の楽園になっているとの事です。

チェルノブイリ立入禁止区域、動物には事故以前より快適? 福島のイノシシ野生化と関係はあるか

放射線というのは、人間には危険だけど、動植物には害がないのか、それとも、これから数十年経った頃に繁殖した動物たちはバタバタと死んでいって文字通り、死の土地となるのか。

福島の原発事故に関わらず、それまで世界中で行われた核実験によって飛散した放射性物質が降り積もっていて、何を今更な状態という話も聞きます。

反対派としては、上記のような事について一つ一つ反論を展開する必要があるのではないかとも思うのです。
少なくとも、科学的・医学的に証明されていない事や、局所的な調査や統計だけで、いかにも放射線によって被害が発生しているというような意見・報告はするべきではないと思います。

 

5.国富流出

経済的側面についての解説が登場しました。
全原発の停止によって、現在の日本はその代替電力の確保を行うために火力発電の割合を増やしています。
そのために、追加購入されている化石燃料の費用が、年間3,6兆円との事です。
これは多分ですが、2013年通年での対カタールに対するLNG購入の貿易赤字額が根拠かも知れません。
これは、公表する団体・組織によってバラつきがあるようですね。また、実際には円安や価格高騰の影響などもあるので、それを差し引くと実際には1,5兆円という試算も出していました。
果たして、円安や価格高騰の影響があるとして、それを差し引いた「実は1,5兆円」という金額にどんな意味があるのか分かりませんが、
現実に出て行っているお金は3,6兆円との事。また、過去には貿易赤字の主要因となっている事を取り上げて原発停止を批判する記事などもありましたが、この際、貿易赤字が原発再稼動の理由とはならないと考えるので、無視です。

推進派が、毎年これほど巨額の追加燃料費が外国に流出しているという事に対して、「だから、原発は稼働するべきだ」という論法を取っているという。
それに対して映画の中では批判していました。
で、批判の根拠なのですが、現在の日本のGDPは約500兆円であり、追加の燃料費とは言え、1%にも満たない。
原発を停止することによって安全と安心が確保されるのなら、GDPの1%にも満たない金額を追加で支払うとしても、問題は無いだろうとの事でした。

また、国富(日本の資産から負債を引いた純資産:原文ママ)は約3000兆円もあるので、代替燃料や自然エネルギー技術の発達を待つまでの間、毎年追加の費用がかかったとしても特に問題は無いとの事です。

とりあえず、著者の河合弁護士は財政破綻論者ではない事が分かりました。それはそれで嬉しいw

まぁ問題は無いのかも知れません。
ただ、もしもこのお金が、逆に国内で使われていたと考えると、GDPを1%近く引き上げる事になっていたのではないかという推測が働きます。
あくまでも推測です。

日本は経済規模が大きいために、この程度のお金を追加で請求されたって特に問題無いという。
3.6兆円。
人口が1.3億人とすると、一人あたり年間27,000円くらいですかね。
うちは4人家族なので、毎年108,000円払えば、原発の恐怖から逃れられるという事か。
自然エネルギーの実用化や国産代替燃料の確保に目処が付くのが10年後だとして、約100万。意外に安いものです。

日本国民は文句言わずに一律でこの金額を負担すべきだと思いますね。

 

6.浜岡原発と南海トラフ巨大地震

今後30年間の間に約87%の確率で発生する巨大地震が原発を襲ったらどうなるのかという問題です。
現在、中部電力は静岡県御前崎市にある浜岡原発に、22メートルの防波壁を建設し、その他地盤改良工事や補強工事を行っているようです。
もう終わってるのかな?

しかし、浜岡原発差し止め訴訟団の弁護団は、原子力規制委員会の作成した津波審査ガイドを分析した結果、津波の高さは63メートルに達するとして、中部電力に警告しているようです。

63メートルの津波というのは、決して非現実的な数字ではなく、もしそのような巨大な津波が押し寄せたら、22メートルの防波壁なんて木っ端微塵なのでしょう。
しかも、もし63メートルもの巨大な津波が襲来したとして、それに匹敵するような巨大な防波壁に激突すれば、100メートル近い高さまで達する可能性があるようです。
もうこれだけで、沿岸部への原発建設は止めたほうが良いだろうと思ってしまいます。

というか、63メートルの巨大津波が来る事を想定するならば、原発反対よりも先に、周辺住民・施設をどうするかという議論の方が緊急性がある気もします。
南海トラフは太平洋側なので、日本海側で…とも思いましたが、日本海側でも地震は発生するし、津波も発生する。
では、そもそも沿岸部ではなく、山間部では…とも思ったが、どうやって冷却水を確保するんだという問題があるみたい。
うーむ、やはり本当に津波の影響を免れたいなら、大きな河川の周辺に…。
日本ではどうやっても無理という事ですね。

 

7.汚染水問題

福島の原発は高台を掘り下げて作られた施設らしく、そもそも地下水が流れ込みやすい地形になっているようです。
そして現在でも毎日400トンの地下水が建屋内に流れ込んで汚染され、一部が海へ流れ込んでいた事から、大変なニュースとなりました。

これは4.原発における科学・技術の進歩を問うの所でも書いたんだけど、そもそも汚染水ってどの程度の汚染なんだろうか?

この映画や本には、「汚染水」とだけあって、それがどのような放射性物質による汚染なのか、具体的にどの程度の汚染度合いなのか、海洋へ放出した場合にどのような影響があるのかについては言ってないように思います。
ネットの情報を確認してみても、見るソースによってバラつきが激しくて、数百億ベクレルとか、◯京ベクレルとか、見ると驚くような数字です。
しかし、これも「問題なし」とする推進派の意見もあって、この映画で言うような「屁理屈」とも言い切れない説得力があるのです。

フランスの、ラ・アーグ再処理施設では、2012年の1年間で、1京1600兆ベクレルの汚染水を排出。
カナダのブルース発電所でも、2012年の1年間で、1280兆ベクレルを排出しているが、全く問題にはなっていないとの事。
これについて、反対派としては、どのように説明すれば良いのでしょう。

そこの所も掘り下げて説明して欲しかった。
なので、「汚染水が太平洋に流れだしてそれがアメリカや欧州にまで到達して迷惑をかける」という京大の先生もいましたが、それ本当ですか?という気もするのです。

本当ならこういった情報や、汚染水といっても問題のない放射性物質である、という事をもっと政府が言うべきだと思うんですが、まぁ政治的な理由か何か分かりませんが、言ってないですね。

汚染水に限らず除染作業にしても、なんだか業者が儲かってるだけという気もします。この辺の
「放射線による人体への影響を放射性物質だからと一括りにして論じる事はできない」
「そもそもベクレルで論じるのは不適切でありシーベルトで論じるべき」
など、放射線の影響を語る上でのマナー的な作法があると思うんですが、この辺は反対派も気をつけるべきじゃないかと思います。

 

8.テロ対策

これ、先日山本太郎氏が国会で詰め寄ってた件ですかね。

私はあんまりこの人好きじゃなかったんですが、この質問は的を得てるなと思いましたです。

本の中では大きく3つの脅威について書かれていて、以下のようなもの。
1.ミサイル・戦闘機・潜水艦による攻撃
2.サイバーテロ
3.テロリストの侵入

いずれも、北朝鮮からの攻撃を想定しているようで、実際にこんな事が起きたら、原発でなくても大変な事になります。
海外(アメリカ)では、こういった脅威に備えて、原発専門の特殊部隊・組織があるそうです。
日本でもそういった措置を行えばいいと思うんですが、なぜしないのか謎ですね。もしかしたら既にあるのでしょうか?

山本氏の指摘のように、まずは試算して有事計画を立てるべきなのではと思うのですが、よく分かりません。
この辺は、何か他の要因があるのかも知れません。憶測ですが。

そして、「それじゃ、そういったテロ対策を行えば原発稼働も容認するのか?」と言われたら、決してそうはならないでしょう。
どこまでやっても「想定外の事態が発生する確率はゼロにならない」という、ありがちなゼロリスク幻想を言い出す人達がいるからです。
そもそも原発がそういう事、ほんの少しのリスクをも許さない施設だからでしょう。

あと、「ミサイルが飛んできたら自衛隊が迎撃すれば良い」とか、そんな事を今時言う推進派っているのでしょうか?
動画の中では総理が発言しているみたいですが…、実際にどれだけ有効なのか分からないですよね…。

 

と、以上、本当にざっくりとですが、映画・本で言われていた反原発の理由について考えてみました。
あくまでも、上記は私の認識なので、事実と反する部分もあるかと思いますが、まぁ市井の戯れ言と思って頂ければと思います。

推進派の言うことも理解できる部分はある。
だけど反対派の「何かあったらどうするんだ」という一言には、どんな経済的、安全保障上の理由も敵わないような気がしてきますね。

いくら対策しても、非常事態を想定して、訓練して、設備や技術の開発・改善を行おうとも、稼働の理由にはならない。

「何かあったら、もう一度起きたらどうするんだ。」

この一言で論破です。思考停止です。

 

これまで送ってきた生活・生産活動などのレベルが下がろうと、技術開発や人材の育成が遅れて既存原発の廃炉や廃棄物の処理に時間がかかろうと、長期間に渡り国富が順調に外国へ流出して経済活動が滞ろうと、外国にエネルギー供給を依存して安全保障を失おうと、その他モロモロ不都合や不便が生じて、国民生活のレベルが昭和、大正の時代に逆戻りするようになっても

原発が事故を起こすよりマシだ。

という事です。まさに

安全のためなら死んだほうがマシ

という事でしょうか。

悔しいかな、反対派としては、「それは言いすぎだろ。」とは言い切れません。
なんせ、どれだけ対策しても、何が起こるか分からないという前提で再稼働に反対をしているのですから、推進派の前提だけ「それはあり得ない。」とは言えません。

映画の中でも描かれていますが、戦後原発の稼働を実現して電力供給のバランスが取られ、安定した電力の供給が実現した事によって復興や発展を成し遂げたという事は認めています。
そう考えると、文字通り発展のエネルギー源となった一翼である原発を、今後も稼働しなかったために日本が数十年という長い期間をかけて没落していくという事態もあり得ないわけではなく、その可能性を100%は否定できないからです。

結局のところ、それだけのような気がします。

 

映画は、新垣隆氏の素晴らしい音楽で締めくくられていました。

そして、上映後には河合弘之氏本人が挨拶のために舞台に登場していました。

私は本にサインも貰ってしまいましたw

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11月に観る予定の「日本と原発」も楽しみです。

【読んでみた】悪霊にさいなまれる世界〈上・下〉

4月に買って通勤のバスの中で読み始め、先日ようやく読み終えた。意外にボリューミーな本だった。

なので、もう何で知って読もうと思ったのか憶えてない。多分、何かのメルマガで紹介されていて読もうと思ったのがきっかけか。

 

この本は結構有名な本らしく、著者のカール・セーガンという科学者も有名な人みたいです。私は無知なので知りませんでしたが。

で、内容的には一言で言うと

「非科学的な話しが世界には溢れているけど、ちょっと待って。もう少しだけ冷静に考えてみよう。」

てな内容です。

UFOとか比較的無害なファンタジーな話しから、宗教(特に後半の魔女裁判関連の話しはエグい)や歴史上繰り返されてきた政治的な問題等まで取り上げられていて、何度もバスの中で禿同しました。

そして、総じて本の内容や著者の意図する所が、私の好きなプラグマティズムと通じる所があると感じ、何でも盲信せず(外国では常識なんだから日本でもそうあるべき、みたいな考え方ねw)、懐疑的視点を持つ事の重要性をつくづくと感じました。

 

買っただけで、読めていない本があと数冊あるが、それ読んだら必ずまた再読したいと思わせる程の本だ。

必読である。

【読んでみた】優雅な肉体が最高の復讐である。

俳優、タレント、サックスプレーヤー、モデル、武田真治さんの本。

別にファンだったわけでもなく、表紙の肉体美に萌えたわけでもないんですが、本のタイトルと、amazonのレビューで

「筋トレのテクニックではなくて、精神論」みたいな記述があったので、読んでみた。

おじさんにとっては、もう筋トレのテクニックとか見飽きてしまっているのです。

 

最近、自転車もサボりがちで身体がたるんで来ていたので、何とかしないとと思っていたのは事実。

カールおじさんのCM見たのもきっかけだったろうか。ちょっと憶えてないんだが、そんな感じで何となく読んでみたのです。

武田真治さんの肉体は、まぁ本にするくらいなので相当に美しいです。

ただ、本を読んでビックリしたのは、私と同い年だという事。

少し年下だと思っていましたよ。なんという違い!!

 

本の中ではトレーニング論だけではなく、これまでの生い立ちや人生観なんかの文章もあるのですが、これが何かしっくり来るというか、

あぁ、同じ時代を生きてきたんだなぁと思わせてくれて、同じ40代の男性として共感できる部分が多い。

 

先日読んだヒロミさんの本にも共通するんだけど、

楽な道はあって、選択も自由だが、やっぱりキツイ思いをしないと身体は締まらない。

とか、そうすることで人生をもっと楽しむことが出来る。みたいな。

読んでいて、肩肘張らない、とても大人の余裕というのを感じる文章です。

 

今まで自転車の練習なんかやるにしても、追い込んだり食事にも気を使ったり毎日体重測ったり、別にそんなに早く走れるわけでもないのに、変にかっこつけて拘ったりしてた部分があった。

そんなもんだから、一旦何かの理由で止めてしまうと、どうしても

やらない理由を探してしまって、結局再起動できない。

たとえ始めることが出来たとしても、ノルマを決めたりしてキツイもんだから、いつの間にか

やめる理由を探している自分がいる。

そんな事を続けていると、やっぱり自分は長続きしないダメな人間なんだと考えてしまうループだった。

 

でも、この本を読んで、その考え方がいくらか変わったような気がする。

まず、体重なんて毎日測らなくなった。

考えてみると、たとえダイエットしようと思ったとしても、

体重を減らす事が目的なのか?いや、自分の身体のコンディションを整えたり、見た目を美しくしたり、性能を向上させる事が目的なんだ。

と思うようになった。でも、これは正論だと思う。

体重がたとえ増えていたとしても、性能が上がればそれでいい。

 

体重を測る事によって、一喜一憂するとして、それって自分にとっては何のプラスにもならないと気づいたのだ。

もし、運動して体重が減っていたとしても、「あぁ良かった、これでビールが飲める。」となってしまうし、

運動したにもかかわらず体重が増えていたら「なんだ、やっぱりダイエットなんて無理なんだ。」となってしまっていた。

 

運動の成果を体重に求める事が、そもそも間違っている。

 

今では、そう考えていて、体重とか体脂肪とか全然測らなくなった。

その結果、自転車も楽しくできる。追い込む事もやめて、これ以上やると仕事に支障が出るなと思ったらたとえ30分しか乗ってなくても止める事ができるようになった。

そして、筋トレも、今まではバランス良く、腹筋、背筋、腕に脚に…と、やらなければダメだと思っていたけど、

とりあえず腕立てだけでもいいんじゃないか?と思えるようになった。

武田真治さんも本の中で言っているが、「とりあえず、始めてみる事が大事」なのだ。

基本的には走ることとベンチプレスだけで、あの身体を作り上げたらしい。人間の身体って不思議だ。

 

キツイ腹筋運動とか、もう大嫌いなんだが、腹筋が割れる(割れて見える)のは、別に腹筋が鍛えられたからではなく、その上の脂肪が減ったから見えてきただけだという事に気付かせてくれたのも収穫だった。

という訳で、本を読んだ後、即効でニトリへ行って、プッシュアップバー買ってきたよ。

amazonでも探したけど、このニトリの奴が最安だったんで。

 

そして、日々、ノルマを決めるでもなく続けております。

本の中でも書かれているけど、「男たるもの、日々筋肉痛が無いなんて不甲斐ない。」みたいな記述があり(ちょっと違うかもだが)、やけに共感しちゃったので、そんな事を考えながら腕立てしてますw

おかげで、ほんの少しだけ変わってきたかなーと感じます。筋肉痛があって張ってる感覚は、確かに気持ち良いですよね。

 

キャンプも自転車も筋トレも仕事も、「雑ではないが余裕を持って」取り組んで行こうって思わせてくれた良書でした。

【読んでみた】いい訳しない生き方。

キャンプするようになって、GARVYとか雑誌を買って読むようになって、時々著者が登場するので気になっていた。

で、いつの間にか大好きな芸能人になっていましたw

この本は、自伝的な感じで思い浮かんだ事を書き留めた感じなんだけど、正直言って私は「10年の空白期間」とかにはあまり興味が無い。

この人の「難しい事考えないで人生楽しもう!」みたいな所が、もう40歳を超えた私のようなオヤジには響くんですよね。

でも、ただ単に言っているだけじゃなくて、その裏にはそこに至った苦労とか苦悩が垣間見えるので、共感できてしまう。

大きな怪我をしたり、芸能界から実業家へ転身したりする中で得てきた著者の人生観は、やはり読んでいて深く頷けるものがあります。

 

でも、本当はこういう自伝的なものじゃなく、「遊び」について書かれた本が読みたいんですよ。

著者の「遊び哲学」みたいなのが、本当好きなんで。

他にも、所ジョージとか哀川翔とかいるんだけれども、著者の違う所は、一人で遊ぶのがメインって所だろうか。

本の中でも触れているが、トライアスロンの大会に出るのも普通はチームに所属して参加したりするが、著者はあえて単独で参加するそうな。

すげー分かる(T_T)

 

まぁ、私のようなぼっちとは異なり、著者の場合はあえて避けているのだと思うが、この「群れたくない」という感じがものすごく好感が持てるんですよ。

釣りも一人、キャンプも一人。

だけど仲間は沢山いる。

なんというリア充っぷり…。

単純に、純粋に、憧れます。

カッコエエ…。

 

私もこんな大人の男になりたいと、心から思わせてくれる一冊です。

【読んでみた】卑怯者の島: 戦後70年特別企画

家族で本屋をブラブラしてたら平積みになっていたので、思わず買ってしまった。

内容は完全な創作で、いつものような歴史的な経緯・解説とか小林氏の持論とかはほとんど無し。

なので、ゴーマニズム宣言とかの文字数が普通と感じる私なんかには、やはり物足りない感じはした。

 

「卑怯者」ってのは誰の事なのか?

というのがテーマぽいんだが、なんでしょうこれは。

「極限の状況では正気を保てないのも、怯えてしまうのも、仲間を裏切ってしまうのも現代に生きる人間が批判なんて出来ないんじゃないか?」

というメッセージに読めました。

表に出ればほぼ確実に殺されるなんていう状況は、想像は出来ても、その状況で自分が何を考えるかなんてわかりません。

作者はそれを漫画という形で少しでも読者に疑似体験させたかったのかなぁ。

 

洞窟でのサバイバルな状況とか、現実には描写不可能な想像を絶する状況だったんだろうと思うんだが、なんと言いますか所謂ギャグ漫画出身の作者なので、こう、絵的に必死な感じがいまいち伝わってこないのは残念だったかなぁと。

あとは、後半の鬼気迫る描写は…所詮物語なのかーという感じがしてしまって…。

 

個人的には、もう10年以上も前?に出ている「戦争論1-3」の方が、今でも胸に来る。

あれは名作だった。

「知らんかったーー!俺は無知だったーー!」と心のなかで絶叫しながら鼻水垂らして読んだ記憶があるな。

 

勇猛果敢な人も、臆病で逃げ惑う人も、みんなそれぞれ勇気を振り絞って戦ったんだろうと思う。

その人達のおかげで今の自分、今の時代、今の日本、今の世界があるというのは重々承知。

今も沢山の人たちが、日本に帰れぬまま遠いどこかで眠っているんだろうなぁ。

特に自分が何かできるわけじゃなく、これから何か行動に移すわけでもないが、家族と友人と仲間が少しでも楽しく過ごせるように、日々忘れずに。

キャンプとか自転車とか仕事も飲み会も暴飲暴食も昼寝も寝坊も全部全部、それが出来る事を感謝してやるようにしよう。