昨今、ますますマスゴミ嫌いになっていく私ですが、それでも購読している読売新聞。
記事の中でも唯一と言っていいくらいだが、好きな、読むに値する記事が存在していて、
「編集手帳」ってやつ。
小さな枠のちょっとした文章だが、毎回ひねりが効いているし、毎回決まった枠の中に収める文章力と構成力には驚かされる事もしばしば。
今日の編集手帳にはこんな事が書いてあった。
日本将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖(68)が特別公式対局でコンピュータソフトに敗れたのはひと月ほど前である。
私は勝てるだろうか?
対局の直前、夫人に尋ねている。
近著「われ敗れたり」(中央公論新社)によれば、夫人の答えは「勝てません」。
全盛期にくらべて、決定的に欠けているものがあるという。
「あなたはいま、若い愛人がいないはずです。
それでは勝負に勝てません。」
実戦は米長さんが序盤で優位を築いたが、コンピューターが挑んできた角交換の”斬り合い”を穏便にいなしたあたりから形成逆転した。
睨みつけてきた相手の<視線を避けてしまった>と米長さんは表現している。
思い当たったという。
「そんな意気地なし?」
という大切な誰かの声が勝負どころで胸をよぎるか、よぎらないか…。
愛人談義に託し、夫人は意気地を語っていたのだと。
「円熟」ではなく闘争本能健在の老成「角熟」を唱えたのは元日本医師会会長の武見太郎氏だが、米長さんの回想も将棋を離れて、老後の生き方の参考になりそうである。
心に若い愛人を
家では口にしにくい格言も、たまにはある。
勝負事には愛人が必要なので、ビジネスマンも愛人を作るべきとか、そういう感じではない。
棋界という特殊な勝負事の世界で生きている人間には常人とは違う常識があるという前提が見える。
ただ、妻という絶対的なパートナーに対しての愛情とは異なる感情というのが存在するのも事実で、どんなに倫理観を説いたとしても、人間(女子供も含めて)は思っているほど理性が行動を支配できているわけでもないし、そんなに高尚な生き物ではないと思う。
愛人というのは非日常的なものであり、それ故に刺激的なもの。
私にとって非日常とは、つまり「流れてしまう時間の残酷さ」を忘れさせてくれる存在だと思う。
時に、過去接した人物や芸術や景色などに出会うとそれを強く感じる。
諸行無常、変わらないものは無い。心の中に保存してあった記憶や憧憬までも美化されたり逆に醜悪になるなど、誇張され変化していく。自分でも気づかないうちに。
ふと耳にした懐かしい音楽がそれを呼び起こすと、誇張された差異が「何か虚しい」」という感情を呼び起こしてしまう。
懐かしい人に逢うと、それを強く感じる。
若い頃はこの先にもずっと続く道があって、老成など遠い未来の話だと感じていた、無視していた。
だけど、今では残されている時間はどのくらいだろうかと考えてしまう。
彼や彼女とはあの時に会ったのが最後だったが、その時はこれが最後になるなんて考えても見なかった。
これからそういう瞬間がいくつもやってくるが、そういう覚悟で人と接する事が果たしてできるだろうか。
勝負の世界で生きる人が愛人を作り、勝負の時に思い出すように、私も憧れていた人物と尊敬する人物を常に心に置いて、その人達に恥じないよう生きていきたい。
「あの人がこんな自分を見たら、何と言うだろう?」
「あの人にはもっとカッコいい自分を見てもらいたい。」
何でもイイと思う。
一緒に老いない誰かが心にいるってだけで、少しだけでも強くなれるような気がしますね。