【行ってきた】保守とは何だろうか【出版記念講座】

Posted by yonezo in 日記, 書評 | Leave a comment
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新宿の朝日カルチャーセンターに行ってきた。

中野剛志氏の「保守とは何だろうか」の出版記念講座だそうで、タイトルは「保守主義の経済論」。

http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=228183&userflg=0

本はコレ。

この本の内容も講座の内容も、まぁそれなりに固い内容なんだけれども、俺は経済思想に興味があるだけで正直「保守とはどうあるべきなのか!?」みたいな考えは無くて、ニュースとか見たり聞いたりして「革新」とか「グローバル化」とか、上辺だけの「自由主義」とかが大嫌いなった俺のような人間を、一般的には「保守」と呼んでいる事に対して、「なるほど、こういう人間・考え方を保守って言うのかー。だとすると保守ってのは、どういう人達がいて、どういう歴史や背景があって、どうやってこの世界に影響を与えているんだろう?」みたいな疑問はあった。この本はそれに答えてくれるのかなぁ?的な知識的興味を満足させてくれるのかなと思って読んでみて、面白かったので講座も行ってみたと。

説明が絶望的に下手ですが、つまりそういう事。

「保守」ってのは、文字通りに保つ守るという事で、今までの状態を保持しつつ適切な状態に管理する「メンテナンス」という考え方と共に、環境の変化に伴って、これまでの体制や状態を適切に変化させるという「メンテナンス」の2つの意味を持っていると解釈しております。
こうやって定義してみると、それって普通じゃん、正しいじゃん!って思われると思うんだが、
一般に「保守的」と言われると、何だか古臭い考え方に固執して頑固な態度を変えようとしない偏屈な人種というイメージだ。そういう言葉の使われ方も「保守思想」「保守主義」という考え方・人達へマイナスのイメージを植え付けている原因かなと思ったりします。

対して「保守」の対義である「革新」とか「改革」とかっていうのは、言葉的には何だか「生まれ変わる」という感じで、新しく素晴らしい世界が待っているよな気にさせてくれる。その通りなら確かに素晴らしいんだけど、実際の世界では「改革」とか「革新」というと、なぜか「全部ぶっ壊してリセットしようぜ!全部新しくして理想の状態を作れば素晴らしい世界になるはず!」という極論が跳梁跋扈するのがほとんである。
個人的には、「革新的だ」って言って賞賛されるような場合も、そのほとんどは既存のものから受け継がれていたり、修正を加えて便利にしたりというのが、ほとんどではないかと思ってますよ。

そして、そういう「リセットしようぜ!」という考え方を持って、それを実行しようとする人というのは、不満を鬱積させている大衆には極めて親和性が高くて、受け入れられやすいという性質を持っている。
有名な所ではヒトラーとかでしょうか。彼とその政党は後に世紀の極悪人の扱いとなるが、当時は民主主義に則り、選挙によって選ばれた政党であるという事実が、そういう「改革」や「革新」というイデオロギーが大衆にとって魅力的に感じてしまうという事を表していると思います。
最近の日本でも小泉元首相とか典型な印象ですね。
以前は健全財政の名のもとに公共工事を削減し、立ち直りかけたデフレを進行させ、郵政民営化つって、便利で必要な側面もあった郵政事業を「ぶっ壊す!」というスローガンで一気に民営化を実行してしまいました。おまけに本当に自民党がぶっ壊れてしまい、民主党に政権を譲ってしまったのは記憶に新しい所です。
今ではその民営化についても問題点が取り上げられ、当時アメリカからの圧力(年次改革要望書)に基いて行われたという点についても議論されています。
そして、最近では反原発で即時ゼロとか。
この人は基本的に既存の体制を「ぶっ壊す!」のが大好きなんですね。
それによって日本そのものも「ぶっ壊す!」つもりなのでしょうか、本人は自覚無く言っていると思いますが。

こういう人達に共通する、「リセットして作りなおす」という考え方には、その反面に「隠れている現行の問題点に対して、詳細に検討・議論して個別に修正するよりも、一から作りなおしたほうが簡単に出来そうだ。」という誤解があるような気がする。
つまり、「いちいち何が正しいか、どこを修正すれば良いか、変更すべきなのか維持すべきなのか、修正が必要な場合はどこをどうやって修正・変更すれば良いのか」などの、ぶっちゃけ相当に面倒臭いであろう議論や検討を「改革」や「革新」という方法ならば省略できると思わせているように感じてならない。
そして国民の中にも、「決められない政治」を批判するというイデオロギーが蔓延し、そう言われる事を忌避する政治家が即断即決を是とするような活動を行なう悪循環である。
民主主義なんだから、対立する意見が存在して議論が紛糾してなかなか解決策が見いだせない、決められない、というのは至極当然なものなはず。
それを何とか時間をかけて議論の中でベストな方向を探って国民に提示していくという、相当に面倒臭くて労力の必要な仕事が、政治というものだろう。
即断即決で決められるような事ばかりなら、そもそも政治家は必要無くて、官僚が全て決断して実行すれば良いという事になってしまう。
なので、「決められない」というのは、政治においてはそれが普通であり、政権を批判する材料としては間違っている。
「決められる政治」を無条件に賛美するべきではない。

普通の常識を持って虚心坦懐に考えを巡らせてみれば、今ある制度やシステムというのは、それを醸成させてきた土壌や歴史・先人達の努力・創意工夫の積層によるものだと思うのが普通だ。
複雑な体制・システムであればあるほど、個別の部分では時代に即して変更・修正する必要が確かにあるだろう。
ただ、それをもって「全部ぶっ壊して新しくしよう!」というのは、狂人の思想と呼ぶほかない。
例えば…

地方分権の時代だ→道州制にしてしまえ
原発は危険だ→無くしてしまえ
既得権益は悪だ→民営化しろ
公共事業に無駄がある→削減しろ
談合はけしからん→一般競争入札にしろ
年金制度は破綻している→清算しろ

うーむ…それぞれ根が深い問題ですね…。

というようなことに考えを巡らせていると、「改革」や「革新」が好きな人っていうのは、基本的に面倒臭がりなんだなと思ってしまうわけです。面倒臭がりでないならば、他のことに忙しくてそういう議論や検討をしている余裕の無い人とも言える。

詳細な部分についての議論や検討を行う知識・情報も無く、もっと言えばそんな事を考えている余裕・時間など無い大衆という存在が、「改革」という手段に魅力を感じてしまうというのも、こう考えてみれば納得が行く。

しかし、こういう歴史って結構あるようなんですよね。
「革命」と名のつく歴史的な事件は沢山あるけど、必ずしも良い側面だけではなく、どちらかと言うと「結局ノリで体制を崩壊させて新しくしたけど、その結果、虐殺が起きたり、侵略戦争が始まったり、失業率が上がったり、金融危機が繰り返されるようになったりって、必ずしも革命がベストな方法とは言えないね♪」っていう人もいる。
フランス革命とか産業革命とか文化大革命とかIT革命とかですかね。
IT革命は違うかww

現代 日本の状況が革命を必要とするとは思えないけど、まぁそう考える人達も何時の時代、どの場所にも常にいるわけで、そういう人達や思想を信奉する人達も必ずいるわけです。
「ぶっ壊せー!、やめさせろー!取り戻せー!革命ダー!ラブアンドピースダー!」ってね。

ただ、そういう思想や人達に対して「ちょっと待った!それはおかしい!」と言う人達も必ず存在していて、それがこの本で言っている「保守」と言われている人達・思想なわけですね。

 

講座では、まず最初に「「保守」概念の乱れ」というテーマからお話されていました。

3つの問題について提起されていて、一つ目は「憲法改正問題」について。

「保守派って言われている人達(自民党)がなぜか改憲しようとしていて、改革派である野党が憲法を改悪するなと護憲派になっている。これは矛盾しているような気がする。」
改憲が保守で、護憲か革新?それって逆じゃね?という事でした。
現在の日本国憲法というのは戦後GHQに起草され、その内容がそもそも「革新的」だからというのが答えのようでした。
そもそも、憲法というのは何か?
憲法は英語でconstitutionと言い、これは「国体・国柄」という意味もあるらしいです。
つまり、憲法というのはその国がどういう国なのかというのを示しているもので、日本の場合は条文として明文化されているため、「成文憲法」と区分けされているとのこと。
イギリスなどが有名ですが、世界には憲法が成文化されていない国もあります。(不文憲法)
日本の場合、裁判で憲法の解釈について議論されたりするが、イギリスの場合はそもそも解釈するべき文章が無いので、過去の判例(=慣習の塊)によって、判断されるとの事。

この過去の判例による判断というのは徹底しているらしく、何百年前にまで遡って判例を辿る事もあったとの事でした。
日本でも過去の判例というのは重要な影響を持っていると思いますが、憲法解釈となるとそれはまた別の問題なのかな、ちょっとこの辺は難しい、倉山満氏(憲政史学)の本とか読まないとですw
関係無いが、今回の講座は時間が短いというのもあるが、質問タイムが無かったのでちょっと残念でした。

で、ここで言いたいのは、保守というのは体制を維持したり、変更するという事に対して懐疑的になるような立場なはずなんだが、日本の場合は特にそれが逆転している、それはなぜだろうか?という事。
中野氏はここで、丸山 眞男氏の「政治的判断」(1958)という文章を紹介しています。

「戦後開放された国民の実感、つまり、現行憲法によって保障されているいろいろな権利の実感を失いたくないという保守感覚、これをもう少し政治的に昇華して、組織化する方向に努力すれば、もっと広汎な大衆を動員できるのではないか。」

保守感覚というのは、一般の国民であれば誰にでもあるものです。というかあると信じたいw
それはつまり、今ある生活や平和、日常の便宜については失いたくない。という常識的感覚です。
なので、普通に考えれば「改革」「革新」という考え方で国体・制度を変えようと思うのは、通常であれば反対するのが大衆なのだが、これを逆転させる(改革派が主導権を握る)ためには「革新」を常態化させてしまえば、大衆は常態化した状態を保守する=革新を指示するようになるだろうという指摘です。
我々戦後の人間というのは、「改革していく事が日常なのだ」という概念に縛られているという事みたいです。
俺も戦後の人間ですけど、正直、改革を保守していたという自覚は全くありませんでした。

そして、2つめの論点が、「資本主義」。

資本主義というのは、そもそもが革新・創造的破壊(Schumpeter)な制度・体制であって、冷戦期はこの資本主義体制を維持する事が「保守」であった。
社会主義体制への変革は「革新」として抵抗してきたという歴史もあるが、
これは「革新」を「保守」するという自己矛盾状態であった。
しかし冷戦が終結して、資本主義と社会主義の対立が終わったにも関わらず、日本の保守派(自民党)は、構造改革と称して革新を実行してきた。
これはまさに前述したような「改革が常態化」した賜物なのかもしれない。

3つ目が「新自由主義」。

高度経済成長と冷戦が終わり、バブルが崩壊した状況では、規制緩和や構造改革などのインフレ対策はやめて、デフレ対策である逆の政策を行なうべきだったが、第二次安倍政権に至るまで正しい経済政策は行われてこなかった。
デフレ対策とは、現在のアベノミクスにおける金融緩和と財政政策の事である。
ただ、第三の矢と呼ばれている「規制緩和」と「構造改革」については、真逆の政策(インフレ対策)なので、まさにアクセルとブレーキの同時踏み状態。
あぁ…もう何が何だか分からないというのが正直な感想とのこと。

ここまでの議論で、「保守は死んだ」というJohn Grayの言葉を引用しておりました。
要するに、改革を常態化されてしまったので大衆は改革を保守するようになり、本体の保守主義は駆逐されてしまったという事でしょうか。

 

そもそも、「保守」という概念はそれまでの世界にとって当然の考え方だったので、議論されるような対象としては存在していなかった。
対立する概念が発生して、初めて「保守」という考え方はこういうものだという定義がなされてきたのである。
では、その対立する概念とは何かと言うと、17世紀アダム・スミスを開祖とする経済学の発生がその要因との事だった。

産業革命に始まる市場経済・市場主義の社会は、労働力など、それまでは貨幣化できないものに対しても市場へ差し出して、流動化させてしまった。
それと共に、今までは経験した事のなかった問題(企業の合理化競争、雇用の不安定化、従業員間の一体感の喪失、家族や共同体における安定的な人間関係を自己実現の場とする伝統的な価値観を棄損、グローバル化による各国固有の文化や伝統的な生活様式の破壊)が発生するようになり、伴うように解決策としての学問である経済学も発達して、どうしたら効率良く市場が機能するのか?という研究がなされてきたのである。

当時、イギリスでは金本位制による金融危機の勃発が繰り返されており、その解決策が経済学に求められていた。
当時の経済学である古典派経済学が出した答えは、現在でも根強く生き残っている、ある考え方が根本原理となり、それを解決策として提示したのである。
その考え方とは、「市場原理主義」であり、市場においては価格や需要・供給のバランスを自然発生的に調節されるとみなした。
つまり、市場や社会には自己調整的(市場メカニズム)というものが存在し、自生的に調整を行なうので、政府などの権力が市場へ介入する事はしてはならないとしたのだ。(小さな政府志向)

この考え方は、当時デフレーションで苦しんでいた時代においては取り上げられる事も無く、デフレからの脱却は政府が介入する事で経済的調整機能を果たしていたのだが、戦後の経済成長に伴って政府の経済的な介入が民間の経済活動を阻害するようになると、今度は逆に「市場調整機能」を提唱する古典派経済学が再興してきたのである。
つまり、「政府は余計な口を出すな」という事だ。

これを新古典派経済学、または新自由主義と呼ぶ。

この新自由主義はアメリカを始めとして1980年台から隆盛を極め、多くの新自由主義的な経済学者を排出した。
その代表がミルトン・フリードマンである。

新自由主義の猛威は凄まじい。
基本的に市場・民間・企業の自由にやらせよう、その上で自己調整的な経済活動が生まれてくるので、それに任せればよいのだ、政府が介入すべきではないという事だが、これは違う言い方をすると、自由にやらせてあげているのだから、それで失敗しても

自己責任ですよ。

という事になる。
これは、本当に都合の良いフレーズであって、一見正しいような気がしてくるが、実際にはこれほど残酷な考え方は無いのではないか。
自由の名のもとに、障壁無く貿易しましょう。関税や非関税障壁など取っ払って日本は鎖国から脱するべきだ。とか。
自由競争の名のもとに、企業活動にはできるだけ規制せずに、競争を促しましょう。その結果、倒産したり失業したりしても、

自己責任だって言ったじゃないか。

という事が、政府・官僚その他主導する立場の人間は言えてしまうのだ。
これは逆を言うと、政府・官僚へ責任逃れの方便を与えてしまう事に他ならない。
しかし、政治家も官僚も全員が全員バカではなく、責任感を持っていないわけではない。
そういう責任逃れのような事をしたくもないし、後から追求もされたくないので、規制を行なうわけである。
しかし、そういう事をするとバカな大衆は、規制緩和だ構造改革だと無責任にはしゃぐのである。

新自由主義者は、経済政策について「一般原則」と「理論」を用いて、市場の調整を行おうとするが(ハイエク)、そもそも、その「一般原則」というのは、何なのだろうか?
いつの時代、どんな環境にも適応できるような普遍的な経済理論というのが、そもそも存在するのだろうか?

”自由主義者は、自己調整的な市場の理論を有し、その理論から、社会が調和するための政治的な原則を導き出す。
しかし、保守には、そのような社会理論が無く、それゆえに政治の一般原則というものを持つことが出来ず、無原則・場当たり的である。”

”以上の意味において、私は、保守に政治哲学などというものがあり得るのか、疑わしく思っている。
保守主義は、実践的な格率としてはしばしば有効であるかもしれないが、長期的な発展のために我々を導いてくれる諸原則を提示することはできないのである。”

保守主義を批判したハイエクは、一般原則を探求することをせずに、その場その場での対応を行おうとする保守主義者について、こう批判した。
しかし、ここから中野氏は18世紀から19世紀前半に活躍したコールリッジを引用して、こうした保守思想への批判について反論を試みている。

新自由主義が言う「市場の自己調整機能」に対しての懐疑がある。
①市場では交換できない価値がある。
自然(農業)、人間性(労働)、共同体(企業)などがそれで、自然は破壊されたからと言って、簡単には代替を用意する事はできない。
また人間性も同様に、培った個人の能力や技能を、失われたからと言って簡単に代わりの人間を雇ったり育てたりすることはできない。
共同体についても、同様である。
②需要は、価格の変化に対して弾力的に変動するが、供給は容易には変動しない。
例えば、欲しいものの値段が何かの要因で値上がりしたとすると、それを欲しいと思う人の心理は即座に反応して購入を控えたり、検討したりするようになるが、供給はそのようにすぐには反応することができない。
例えば、消費税が増税されるからその前に住宅が欲しいという人が殺到したとしても、すぐには供給能力を増やして対応するという事は無理だという事。
③金融市場は、本質的に不安定である。
景気が良い状態になると、将来的な経済的期待が増すため、人は投資行動を活発化するようになる。
投資行動を活発化させると、それによって更に景気が加速するため、この循環が繰り返されると必然的にバブルを発生させる。
しかし、何かのきっかけでバブルが弾けてしまうと、リバレッジをかけていた投資に対して反対にデリバレッジがかかってしまうために、景気の下落も加速度的に進み、崩壊を起こすようになる。特殊な要因が無い限りはバブルの崩壊によって通貨安となり、景気回復へ向かうのだろう。
これが、バブルの発生とその崩壊の循環であり、本質的に不安定な資本主義体制では避けられない事象である。

上記のように資本主義における経済活動というのは本質的に不安定であり、国家経済を形成する個々人の性質というのは、経済学が定義するような単純で無機的な「利益を求めて活動するだけの存在」などではない。

人間というのは、歴史的に形成された伝統的な共同体や持続的な人間関係を持ち、安定した社会秩序を尊重する存在である。
また、自分の生まれた国や共同体が持つ固有の生活様式、文化、環境に制約された存在でもある。
ゆえに、個人の自由は、豊穣な文化的環境や安定した社会秩序があって初めて、意味を持つのである。

国民国家を形成する人間の存在は、利潤だけを追求する個人主義だけを是とするものではなく、その活動には必ずしも利益や個人的な欲求の満足だけを目的とした存在ではない。また、そういった個人が経済的のみならず社会的な危機に対応する方法というのは、一般原則や理論に基づいたものだけではなく、そこには過去から引き継がれた歴史や醸成された常識感覚というものを用いるのであり、それをコールリッジは「便宜」と呼んだとの事でした。

本の中では、このコールリッジの思想について、宗教的・哲学的な思想観なども解説してあり、相当理解困難な感じなんだが、
要するに、経済問題だけではなく、あらゆる危機に対応するために必要なのはプラグマティズム」的な発想と態度なんだなと思ったのでした。

プラグマティズムについては、以下の本が詳しいです。

どんな問題についても言えるが、理論や理屈が一見正しいように見えても、少し立ち止まって考えてみて、自分の中の常識や疑問、虚心坦懐な気持ちで考えてみて、本当にそれで正しいのか?と問いなおす事ができるようにならなければならない。

どれだけ素晴らしい演説であろうが、どれだけ高尚な理論だろうが、完全に納得できるならいいが、そこで自分の中にある「ちょっと待てよ…、それはおかしくないか?」という疑問が出てきたら、納得が行くまで考えるべきである。
マトモそうな内容であっても、冷静になり、当事者の立場に立ち、その時代、その国の国民に思慮を巡らしてその主張の意味を熟考しなければならない。

そして、願わくば、そういった思想や政治的な考えを発言する状況・環境が、この日本においても普通の会話として成立するような意識が一般的な空気として醸成されると、もっとこの日本は強く靭やかな国になるのではないかなと思ったのでした。

 

尚、上記内容には個人的な意見が含まれており、歴史・経済・思想における認識には多大に誤りがあると思われます。
指摘して頂けると大変感謝しちゃいます。

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