【読んでみた】大衆社会の処方箋―実学としての社会哲学

Posted by yonezo in 日記, 書評 | Leave a comment
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昨今起こる政治・経済問題やあらゆるニュースを見ていると、どうしてもその問題や当事者そのものではなく、本当は我々の方に問題があるのではないのか?
という素朴な疑念が湧いてくる。
例えば消費税増税、例えばTPP、例えば幼児虐待、例えばブランド志向、学歴社会、離婚問題、芸能界、国家、宗教、自由、愛。

一日中悩んだよ、でもそれって結局理屈じゃない。(脱線

とは行かず、悶々としていたところに、この本を読んでまたガツンと来ました。

内容としては、オルテガの「大衆の反逆」を代表とする大衆社会論を軸に、「大衆尺度」という指標を設定して実際に検証を行い、現代日本人における「傲慢性」「自己閉塞性」などの大衆化の度合いとの相関を述べつつ、その起源を探るというもの。
また、ヘーゲルの「人間疎外」、ニーチェの「運命愛」、ハイデガーの「本来的時間性」という概念に着目して、オルテガの論ずる「大衆性」との経験的な関連性を検討し、大胆にもその処方箋(対処・予防方法)を述べたものです。

ちなみにオルテガは「大衆」について以下のように定義している。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は、すべての人と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人の事である。

社会を大衆と優れた少数者に分けるのは、社会階級による分類ではなく、人間の種類による分類なのであり、上層階級と下層階級という階級的序列とは一致しえないのである。

そして、この「大衆化」は近代文明の発達がその出現を促したと論じている。

今日の大衆人の心理図表にまず2つの特徴を指摘することが出来る。
つまり、自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。
この2つの傾向はあの甘やかされた子供の心理に特徴的なものである。

自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩…。

俺がここでこうして生きていられるのは、誰のおかげなんだろうか?
過去の日本人を安易に批判できる立場なのか?
失敗した人達、糾弾された人達、批判の的となった人達。
ちょっと待て、失意のうちにあえてそれら批判に耐えたのではないのか?その裏側にはひょっとして伝わらなかった伝えきれなかった忸怩たる事情というものがあったのでは?
問題が起きる度に批判してるけど、今までそれに依存して頼りきって安寧なる生活を手にしていたんじゃないのか?
依存しきっているくせに親に反抗し、親無くしてはまともに生きることもできないくせに感謝さえしない、それゆえに社会も知らずに育った甘ったれたバカ息子のようじゃないか!
そんな気持ちを想起させるのがオルテガの「大衆の反逆」という本でした。

思えば、この「大衆化」という考え方を初めて目にしたのは、小林よしのりの「戦争論」を読んだ時だった。
冒頭に出てくるセリフ。

「平和だ…あちこちがただれてくるよな平和さだ
だれもこの平和の正体をしらぬまま…」

それまで「平和ボケ」という単語はあったが、この漫画でその意味や背景を知ることができたと思ってます。

それ以来、ずーーーっと、なんとなーーーーく思ってた、この「大衆化」という概念。
「なんか批判してるけどさ、本当のところバカなのは俺たちなんじゃねーの?」みたいな。
「なんか批判ばっかしてるけどさ、それ選んだの(作ったの)俺らなんじゃねーの?」みたいな。

で、この考えが頭から離れないと、それまで何とも思ってなかったような事が、この俺の、日本人としてのアイデンティティを揺るがすような大問題だったんじゃないか!
みたいな感じで、出てくる出てくる、今の日本も大問題だらけ。
そして、よくよく考えてみると、その起源はやはりこの国の「大衆化」だったりするという結論に行き着いたりする日々。

そんなモヤモヤした思考を「その通りだよ君ィ。」と言ってくれるようなw
そんな本でございます。

 

とにかく、この本、大変面白い。そしてグースカと眠りこけていた思考を延髄蹴りで強制的に開眼するような古今東西の思想が至る所に散りばめられている。
ここでその全てを書評するのは無理な分量だし、その力量も無いので省くけど、個人的に最もガツンと来たのは、ニーチェの「悦ばしき知識」からの引用で、デーモンへの反応から運命愛を解説した部分。

最大の重し。-もし或る日、あるいは或る夜なり、デーモンが君の寂寥きわまる孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、-
「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いまさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。
そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言い尽くせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。
しかも何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって、-
さればこの蜘蛛も、樹間のこの月光も、またこの瞬間も、この自己自身も。同じように回帰せねばならぬ。
存在の永遠の砂時計は、くりかえしくりかえし巻き戻される-それとともに塵の中の塵であるお前も同じく!」
(「悦ばしき知識」ニーチェ全集第八巻 三四一頁)

キリスト教的な思想は、過去から未来へと繋がる「一直線」の時間観を前提としている。一方で、ニーチェは、ぐるぐると繰り返す「円環的」な時間観に基づく「永劫回帰」の思想を主張した。この思想では、この世のあらゆる事象が、過去、未来にわたり永遠に繰り返される。

もし、今までの人生とこれから訪れるであろう人生が、その終わりと共に再度、そして幾度も繰り返し体験し、生きなければならないとしたら。
それでも、これからの人生を怠惰に、無意味に、生きることを選択するだろうか?

キリスト教に限らず、来世や死後の世界を想定する宗教を信奉する人々にとっては、たとえ死後の世界において現世における罪悪の償いを行わなければならないとしても、現世での行い=日々の人生における態度を不まじめにする=ニヒリズムに陥るで有ろうことは想像に難くない。

もう何を言っているか意味不明かも知れないけど、要するに、いま生きている人生を何度も何度も繰り返し経験しなければならないとしたら、それでも不真面目に、怠惰に生きるだろうか?」という事らしい。(俺の解釈
そういう人生観を持つならば、人は大衆化せずに生きるだろうし、それによってこの社会もより良いものになっていくだろうという感じ。(俺の解釈

そして、最後に「大衆性軽減のための三つの基本方略」として、以下を挙げている。

「運命焦点化」
自身の死の瞬間に至るまでの「人生」に対する注意・関心を増進させ、自律的な解釈学的循環の展開を促進する。

「独立確保」
自身の精神の自律的な解釈学的循環とは整合しない外部システムに制御・支配されることを回避し、自律的な精神の解釈学的循環の躍動の回復を期する。

「活物同期」
大衆化した自らの精神の閉塞空間の外部にて躍動する「活物」に自らの精神を同期させ、自身の精神の解釈学的循環を活性化させる。

ここで言う「解釈学的循環」というのは、
ある解釈は、その解釈主体の精神のあり様に影響を及ぼし、その新しい精神の状況に基いて再びまた新しい解釈が構成される。
という事らしい。

つまり、大衆化していない人というのは、常に自身に課題を課し、高みを目指し、その目標に到達してもさらに新たな目標を設定して高みを目指し続けると。(俺の解釈
まぁこう書くとなんだか壮大で難解な思想のように思えるが、よくよく読んでいくと、結局かつての日本人が送ってきた生活習慣や風習、そして気質や常識というものに回帰していくような気がした。

自分の生活や社会や人生について考える、そしてそれについての思考・議論を厭わない。
「大衆化」した環境からは離れるようにする、そして出来るならば「非大衆化」するように働きかける。
共同体や集団、コミュニティへの積極的な参画。
子供への接し方、不便を回避しない育て方、これまでの日本人が培ってきた「伝統」を大事にして尊重する。
そんな当たり前のように思える事を当たり前に行うのが、大衆化を軽減し、非大衆化社会を作る基本方略だという結論でした。(俺の解釈

この本はシリーズ化されて、今後も続編が出る予定との事なので、大変楽しみな感じです。
あらゆる現代の社会問題に対する態度・見方を養う上で、この本は最適なのではないかと思ったのでした。

いや、とにかく知的興奮が味わえる、久しぶりに面白い本でした。オススメ。

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