以前からamazonのレコメンドに出てきていて、レビューとか読んでも面白そうな本だなとは思っていたんだけど、ようやく買って読んでみる事が出来た。
私はこの本で起用されている「グラップラー刃牙」ってのを全然知らないんだが、それは全く関係なく、内容が最強に面白かった。
なんというか、この「哲学・思想についてテーマ別で時系列的に書く」という、この手法が大変分かりやすい。
そして「対戦」という前提があるため、単に時系列に並べた歴史教科書的な書き方よりも、それ以前の思想と対比させながらなので面白く読める。
勿論、飲茶氏の書き方も大変読みやすく、分かり易いのだ。
内容は大きくテーマが分かれていて、以下のような感じだった。
第1ラウンド:真理の「真理」
第2ラウンド:国家の「真理」
第3ラウンド:神様の「真理」
第4ラウンド:存在の「真理」
こんな感じである。
どれもこれも、時系列的に過去から現代へと、有名な哲学者や科学者の思想を取り上げて、徐々にその哲学が覆されたり、発展したりという書き方で、その哲学をわかりやすく説明してある。
例えば、真理の「真理」はこんな感じだ。
プロタゴラスが「絶対的な真理なんかない」と言えば、その後のソクラテスが「いやいや、俺は死んでも真理を追求するよ」と反論し、だけどその後も真理と言えるようなものは見つからず、いつしか信仰に走るようになった中世を通り抜けて、デカルトが「もうちょっと闇雲に考えるのではなくて、方法論的に真理を追求しないか。とりあえず、これだけは疑いようがないというものを見つけよう。」と言い出して、結果「何もかも疑ってみたけど、疑っている自分だけは疑えないよね。」となって、一応の出発点を見つける事はできたんだけど、それじゃ、その「原理」からどう発展して真理に至るの?という部分で、結局「私の存在は疑えないのだから、私の認識も疑いようがなく。なぜ認識が正しいかというと、それは神様が私を作ったからなんだよね。」と、なぜか斜め上の方向へ突き進んでしまって、なんじゃそれな展開に。
その結果、ヒュームが「そもそも、デカルトの言ってた”私の認識とか存在”とかって、何なの?認識なんて結局のところ、経験や知覚の集合体じゃん」と反論。
火が熱いのも、太陽が眩しいのも、全部本当にそうかどうかなんて分からなくて、ただ単に「経験上、そう感じてるだけ」なのかも知れないじゃん。と。
そこで現れたのがカントで「個人個人の経験から認識しているというのなら、なんで異なった経験をしている人同士で共有した認識を持つのだろう」と反論。
それを発展させ、「やっぱり人間は生まれつき持っている共通の認識というのがあって、それによって異なる経験をしてきた人間同士でも共通の認識を持つことができるんじゃないだろうか」と結論した。
ただ、結局の所これも「人間同士では当てはまるかも知れないが、異種族や宇宙人となると、それは違うんじゃないか」となって、やっぱり真理ってのは人間が規定するものであって、今まで真理と言っていたものは、「人間にとっての真理」なんだよね、という所に落ち着くのであった。
しかしながら、人間にとっての真理があるという事は分かったが、どうやってその真理を見つければ良いのかという方法論は分からないままだった。
そこにヘーゲルが現れて、弁証法の果てに真理へと到達できるはずだと提唱。それは歴史にも当てはめられて、人類の歴史・社会というのは試行錯誤の末に段々と良くなっていくものなのだという考え方となっていく。
しかしながら、このような考え方は「いつか真理や理想の社会は見つかるよ」という事になり、いつになったらその真理や理想社会が訪れるのかは、誰にも分からないという事になってしまった。
そのような受け身の哲学姿勢に異論を唱えたのが、キルケゴールで、「そんな、いつ分かるか分からないような真理なんていらない、私は私だけの真理が知りたいのだ」と唱え始めた。
その後に現れたのが、サルトルで、「待つばかりではなく、自らの選択で未来を切り開くべきじゃないか。例えその選択が間違っていたとしても、それは自分が引き受けるべき未来であって、その選択と追求を止めるべきじゃない」と言い出した。これは当時の主流であった資本主義社会から、いつかもっとそれよりも良い理想の社会制度が出来るはずだという思想につながり、当時の若者をマルクスによる社会主義へ傾倒させる事へと繋がっていったとの事。
しかしながら、これに対してレヴィ・ストロースは、「そんな、人類が共通して理想と考えるような社会なんて、本当にあるのか?」と反論。
人類学者でもあったレヴィ・ストロースは、西洋人の影響を受けていない未開人やその文化に触れ、今まで理想と言っていたものは、西洋人が勝手に考えていたものであって、それは決して「誰にとっても理想である」とは決して言えないのではないかと唱えた。
この頃から、時代は混乱の様相を呈してき始めて、「何だか、真理とか理想の社会って人間の理性を基本にして求める事が出来るって近代の哲学者は言ってたけど、人間って結構愚かな存在だよね。」という空気になっていく。
ここから現代哲学が始まり、それまでの「信仰」や「理性」に頼って真理を見つけようとするのではなく、実践主義的なものを求めるようになっていく。
つまり、「真理とかどうでもよい、実際に人間や生活・社会に役立つことについて考えよう。」というプラグマティズムが発生し、その代表的な哲学者がデューイであった。
というような感じで、上乗せ上乗せで被せてくる感じ。
哲学史がストーリーになっているようで、非常に分かりやすく構成されています。
この他の「国家」「神様」「存在」についても同じようになっていて、特に「国家」の部分は、現在の日本社会の問題を考える上でも大変勉強になるように感じた。
そして、読んでいるうちに感じるこの感覚…。
小さい頃から、ぼんやりと一人で外の景色を眺めながら考えていたこと。
考えたって自分なりの答えしか見つからないし、それが何の役に立つのかと問われれば、全く意味がないような思索。
そういう、ある意味で「自由」な時間がその頃は沢山あったという、懐かしいような、なんとも言えない記憶を呼び覚ます。
もうこれは、人類のDNAに刻まれている問題提起、解決したいという基本的な欲求なんでしょうね。
一人でぼけーっと、多摩川の川辺で物思いに耽るために最適な本かも知れません。