社会主義とは何か。

Posted by yonezo in 日記, 書評 | Leave a comment
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なんでもそうですが、偏った制度、見方、基準は、その理想がどれだけ高邁なものであっても、「過ぎたるは及ばざるが如し」の状態になってしまう事が避けられない運命にあるような気がします。

現在の日本経済は、長年の「新自由主義」的な政策に大きく舵を振り切ってしまった結果、自由の名の下に過度の格差や諸問題が発生しているんじゃないかと、いろいろな人達が言っているわけですが、そんな中、あの三橋氏がブログや著書で「社会主義」というキーワードを出してきたので、「お?」っと思ったわけです。

社会主義って言ったら、一番に思いつくのはソ連、コミンテルン、マルクス、共産党、中国、北朝鮮、チャウシェスク、独裁、粛清、虐殺…とか、そんな単語ばかりで、全然良いイメージがありません。西側の国に生まれ育ったからだと思いますが、正直申し上げて、そもそも

社会主義って何だ?

と思ったのでした。

自由主義や資本主義の対極に社会主義や共産主義というものがあるとして、現在の日本が極端な自由主義、資本主義に偏っているせいで様々な歪みが生まれているのだとしたら、三橋氏の言うように「もう少しだけ、社会主義的な政策を取り入れてもいいんじゃないか?」という提案には、何となく納得できるような気がするのです。

案の定、「社会主義だなんて、やっぱりあいつはコミンテルン!」とか言う人もいて、逆にこれはちゃんと「社会主義」というものについての認識を持っておかないと、現状の混迷を解決するための手段は見えてこないんじゃないかと思ったわけです。

保育所が必要なのはわかるけど、そのために公共事業費を削減するとか、もう何を言っているのか分からない政治家の暴走を食い止めたい、無くしたいわけです。

もしかしたら、社会主義ってのは、それ自体はマトモな思想・制度であって、社会主義を採用した国家が崩壊したり、経済的に困窮しているのは、その国も西側の資本主義を採用した現在の国々と同じように、一つの思想・制度に極端に「振り切った」結果なのではないかと。

人間て、一つの主義・主張を採用すると、なぜか極端にそちらの方向へ突き進んでしまって、いわゆる「中道」「丁度良い所」というものにバランスできない生き物なんですかね。

 

そんな事を考えていた折、こんな本をamazonで見つけたので、読んでみました。

 

社会主義って言うと、条件反射的に「コミンテルン!」と叫ぶ人がいますが、そういう人向けの本かも知れません。

で、読んでみると、予想した通り、もともとは産業革命の結果、行き過ぎた資本主義で生まれた格差問題を解決するための手段として、マルクスやエンゲルスが考えだした制度という事らしく、欧州では社会主義政党も行き過ぎた自由主義へのカウンターとして市民権を得て、実際に議席を取ったり、国家元首を出したりしていて、「社会主義といえば反体制」というのは、世界的に見ても日本特有のものらしい。

著者もその辺について嘆いていて、日本で戦後、社会主義への認識、社会主義政党が偏向していく過程を「良くわからないままの欧米追随主義」「何がしたいのか意味不明」と批判しています。

なので、社会主義という単語それだけを取り上げて「あいつはアカだ!」というのは、まさに戦後日本の「よく理解していないままに欧米で流行している思想を追随してしまった結果、暴走して何がしたいのか分からない状態」の一部日本人と同じレベルではないかと思うわけです。

まぁ社会主義者=反体制というのは、「日本においては正しい」というべきかも知れません。

 

書中では、イギリスの産業革命から発する社会主義の発展と経緯が書かれていて、それ自体は至極納得できる内容です。
まさに当時も現在の世界と同じように資本主義、自由主義、経済合理性を追求していった結果、格差問題や労働問題が勃発して社会問題となっていたという事です。

そして、そういった自由主義的な政策-特に経済政策-は、必ずしも人間を自由にしなかったという事実も同一であって、むしろ、21世紀の世界は、資本主義に替わり得る対抗軸を探し求めているようにさえ見える。

当時、その対抗軸として生まれたのが社会主義思想だった。

 

以下、個人的にアンダーラインな部分を紹介。

社会主義とは、生産活動が私的な金儲けの手段と化さないよう、それを理性的な意思決定の下に統制することである。

決して、私有財産そのものを否定しているわけではない。

搾取から生まれた私的所有が非難されているのであって、正当な私的所有までもが否定されているのではない。

この辺は現在の共産主義国家による、不当な弾圧・抑圧によるイメージが、投影されているのかも知れない。もともとの社会主義思想というのは、あくまでも生産手段となる資産を共有財産にしようというもので、圧政や民衆弾圧のための思想ではなかった。

 

国家権力による統制を、国家権力による抑圧と混同してしまうと、社会主義の意味は理解できない。

なんでもかんでも、国家による規制を取っ払えとか、国家による管理は不要だとか批判するのは、そもそも社会を良くしようと思ってないって事ですね。

 

自由な労働市場は、あらかじめ不平等なものにならざるを得ない。

こんな事、はるか昔から人類が得ていた智慧なのに、未だに純粋自由主義を礼賛している人達が沢山いるという事実。

 

金儲けや私利私欲から開放された汚れなき理想郷など、この下界には実在しない。

マルクスの共産主義と伝統的な理想郷願望との混同は、21世紀になっても続いている。

フランス革命からソ連成立までの経緯についても詳細に書かれているようだけど、知識のない私にはちょっと難しい…。もともと労働運動から始まった思想の流れが社会主義国家の成立につながっていく…という事みたい。マルクスの考えていた社会主義とは異なるものだったって事かな。

 

世界で最初の産業革命がイギリスで起こった事により、世界の工場としての地位を確立したが、そのことによって、実際に生産活動を担う人々が豊かになったわけではなく、むしろ困窮していった。

歴史的事実に照らせば、自由や人権といった減速が浸透するに連れて、貧困層は保護を失っていった。

王侯貴族の統治下にあった旧体制時代には、貧困層に対して、むしろ積極的な公的支援がなされていた。

固定的な階層関係の下で福祉的な制度を実施すれば、上から下への施しにしかならない。

福祉は人を怠け者にするといった、短絡的な発送を鵜呑みにしてはならない。そのような事態は、格差が固定化している社会のみに妥当する事だからである。

労働者階級の貧困が自己責任であったとしても、それに伴う弊害は社会全体に及んだ。

単に上からの支配を除去した所で、真の自由と平等は実現しなかった。

21世紀の先進国において、性別で雇用の機会に差があるのは、許しがたい差別であろう。だが、自分たちの時代の価値観で、過去の歴史を意味づけてはならない。雇用機会における男女の区別は、決して旧弊な差別の残滓ではなく、かつては女性解放の成果だったのである。

庶民層の女性やこどもは、その意志や希望とにかかわりなく、過酷な賃労働に従事しなければ生きて行けなかった。一連の工場立法(※1)は、そのような状況から女性や子供を解放する措置だった。
※1 主にイギリスで制定された、女性や子供の労働について規制する法律

1802年:徒弟の健康及び道徳法
1833年:一般工場法(9歳以下の児童の労働を禁止。16歳以下の者の夜間労働を禁止、労働時間を12時間に制限。)
1842年:鉱山法(成人女性の地下労働が制限)
1847年:工場法(成人女性の労働時間が一日10時間に制限)

資本主義は何らかの形で-程度の差が大きいにしても-政治機構の統制を受けていたことになろう。

当時のブルジョワジーが抱いていた「福祉への関心」は、あくまでも、世の中の仕組みや制度を変えること無しに、出来る限り私的な行為で貧困問題に対処することだったのである。慈善活動への支出は、そのための必要経費であった。

慈善組織協会は、貧困を、社会や経済の問題とは見なさず、個人の道徳的責任に還元していた。

 

もちろん、自由主義や資本主義によって得られるメリットは沢山あるが、その反面で利益追求を是としたために、失ってきたモノがあるという事ですね。

最後の方は小泉元首相の「自己責任」ブームを連想させます。

そして、一見、不自由な社会だと思われていた封建制度における主従関係も、貧困への「保護」という点については、労働者の貧困を自己責任などとは捉えず、「保護」や「援助」は支配層における文化として根付いていた事が書かれています。

そういった文化も、産業革命から勃興するブルジョワジーの要求によって、無くなっていき、同時に貴族などからの「保護」も必要ないという時代になっていく。

当然、こういった意見も「今の時代に生きている立場からの見方」なんだが、一概に社会主義的な社会制度も悪とは言えないし、その逆も然りだろう。

民主主義、自由主義、資本主義を採用している日本その他の国でも、程度の差こそあれ、社会主義的な制度は残されているわけである。

 

誤解を恐れず言うならば、大きく偏ったために、歪が出ているのなら、逆の思想について考慮してみるのは、バランスを取るために必要な行動なんじゃないかと思うんだが、どうだろうか。

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