【行ってきた】M・ウェーバーの官僚論と現代日本の官僚制

Posted by yonezo in 日記, 書評 | Leave a comment
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評論家であり個人的に大好きなプラグマティストである中野剛志先生の講座が開かれるというので、新宿まで行って参りました。

朝日カルチャーセンターって初めて知ったが、手芸とか太極拳とか以外にも、こういう講座が開かれてるんですね。

今回の講座は去年発売された「官僚の反逆」という本を元にお話されるとの事で、内容もそれに沿ったものでした。

マックス・ヴェーバーの官僚論は読んだことは無いんですが、「官僚制」という言葉からイメージされるような行政上の問題に留まらず、そこから派生される諸処の問題について考えてみようという感じです。

とりあえずマックス・ヴェーバーの官僚論、それを元に書き下ろされた「官僚の反逆」の内容について説明するのは、私の文章力・理解力から考えて誤解を生む可能性が大きいので、省略する。(というか以降書く内容は多分に間違いを含んでいる可能性が大きいので、出来るなら自分で「官僚の反逆」を読んでみることをおすすめします)

代わりに、昨日会場で渡されたレジュメ(以下太字部分)を元に思いつくまま書いてみたい。

 

レジュメ

1.マックス・ヴェーバー「官僚制的支配の本質、諸前提および展開」
※「現代社会学体型5 ウェーバー社会学論集」青木書店 1971年

上記の本を「お、面白そうだ読んでみよう。」とアマゾンで検索したら、まぁとんでも無い値段だった。
大学での研究とか経験の無い私にとっては、趣味程度にしか過ぎない経済書籍にこの値段は高すぎる。

  • 官僚は、規則の拘束の下で職務の執行を行い、「非人格的な没主観的目的」(「だれかれの区別をせず」=「計算可能な規則に従って」)に奉仕する。
  • 精確・迅速・効率的な事務処理
  • 非人間化
  • 官僚制的支配=近代資本主義社会

官僚制が「非人間化」されればされるほど、それだけより完全に、官僚制は、資本主義に好都合なその独特な特質を発展させることになる。
ここで、より完全にというのは、官僚制が、愛や憎しみ、および一切の純個人的な、総じて非合理的な、計算出来ない感情的要素を、公務の処理からしめだすのに成功するということなのであって、それは、官僚制の特性として称賛される固有の特質なのである。
まことに、近代文化が複雑化と専門家の度をくわえるにつれて、それは、個人的な同情、恩寵、恩恵、感謝の念に動かされる旧い秩序の首長のかわりに、人間的に中立・公平な、それゆえ厳密に「没主観的」な専門家を、それ[近代文化]をささえる外部的装置のために必要とするのである。(ウェーバー1971 p326)

マックス・ヴェーバーとは18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍したドイツの社会学者。

講義の冒頭に触れられていたが、理系の学問には時代が進めば進むほど理論が進化するが、文系の学問についてはそれが一概に当てはまらず、このマックス・ヴェーバーの官僚論のように100年後の現在でも通用し、且つ、一線級の理論であるという事が数多あるという風に仰ってました。

マックス・ヴェーバーの言う「官僚的」というのは、職務上の官僚職一般を指すだけではなくて、社会通念的な行為・行動についても当てはめて考えてみる、というように感じました。

官僚的というのは、「紋切り型の対応」という風に解釈される通り、融通が効かず、規則通りに定型的な行動を指す。=「だれかれの区別をせず」

一般的にこのような官僚的な対応や官僚そのものについては、以前から批判されてきているが、このマックス・ヴェーバーの論理や中野先生の解釈を読むと、いかにその批判が矛盾していて、求めている理想とは真逆の方向に突っ走っているのかが分かる。

 

官僚制の出来る前は、名望家による政治が行われていて、例えるなら自分の住む町の有力者が町民の支持でもって政治を行い、声を吸い上げながら行政行為にもあたっていた。また産業革命以前には大規模経営というのは存在せずに、官僚的支配による効率経営というものが存在しなかった。

しかし、その名望家が政治活動と平行して行政行為も兼務していたため、政治における手続きや決定に時間がかかるようになり、合理化と効率性を求め始めた大衆は「官僚」による政治を求めるようになったということらしい。そして産業革命により大規模な生産活動が行われるようになると、自ずと従業員が増大するために規則や管理体制が必要となり、また一律的な教育制度が作られるようになった。また従業員が増えてくると管理職はすべての社員について把握ができなくなり、そのために社員それぞれの成果を判断するのは自ずと数値による判定に頼らざるを得なくなってくる。
こういった数値による管理と効率性の弊害については誰しも思い当たる節があると思われ、役所の事務的な対応というのが最も理解されやすい例としてお話されていた。(電車が遅れたために提出する書類の提出時間を過ぎてしまったが、不可抗力にもかかわらず「時間を過ぎたので受理できない」というような紋切り型の対応や、売上や成果による判断だけで昇進や昇給が行われるようになり、従業員の特性や特質にそった恩寵というのが無くなってきたというのがそれにあたる)

つまり、大衆が本来求めていたのは行政の効率化や迅速化だったのだが、数値による判定、「だれかれの区別なく」という公平・中立的な対応というのは、本当に我々の生活を快適にしてきたのだろうか?逆に近代化は非人間化を進行させたのではないか?という問題提起だった。少なくとも中野先生は「私はこういう社会は嫌ですね。」というような事を仰ってました。

単純に役所の担当者の態度が気に入らないという問題に留まるならば、ここまでの問題提起には至らない。また成果主義がはびこったために数字として結果を残さないと給料が上がらないという卑近な問題に留まるならば議論の余地は無いように思われる。
この「社会の官僚制化」というのが、どういう影響をもたらし、現代の社会がどう変わってきたのかという所まで演繹すると重大な問題が見えてくるというのが中野先生の解釈であった。

 

 

  • 官僚制的支配=大衆民主社会

官僚制組織は、同質的な少単位体の民主制的自治とは対照的に、とりわけ、近代の大衆民主制の不可避的な随伴現象である。

このことは、なんといっても、支配行使は抽象的な規則にもとづくという、官僚制に特有な原理によっている。

なぜなら、これ[抽象的な規則にもとづく支配行使]は、人的および物的な意味における「権利の平等」への要求から生じ、それゆえに、「特権」の忌避や「その都度」式の[事務]処理を原理的に拒否することから生じるからである。(ウェーバー1971 p336)

近代社会の大衆民主制というのは民へ権利が与えられ平等な社会が実現されるので良いことばかりのように思われがちだが、上記理由から随伴的に官僚制化が進行する。
まぁこれは仕方がないのかなと個人的には思ってしまいます。

  • 官僚制的支配=近代市場

「だれかれの区別をせずに」ということは、「市場」およびいっさいの露骨な経済的利害追求一般の合言葉である。(ウェーバー1971 p325)

要するに、「近代市場になって流通量や速度が増大してる状況で、そんなのいちいち人を見て判断するとか事情を鑑みて判断するとかやってられないよ。」という事ですね。なので「一律このルールでやりますから。」という感じ。
また、この問題に絡めて東日本大震災による被災地復旧の問題にも触れられていて、地元の土建業者は一日も早く工事に取り掛かりたいのに、政府が「一般競争入札方式」で発注するものだから、やりたくてもできない状況にあるとの事。
「談合」や「指名競争入札」は利権や汚職の温床と批判されたために、駆逐され廃止されてきたが本当に談合や指名競争入札の意義を理解している人が大衆のなかに存在したのだろうかという事でした。
このへんは私もいろいろな人に話しをしてみた経験があるけど、理解している人は皆無だった。
イデオロギーで批判するのは最近では即時原発廃止とかがあるけど、本当に「自分の首絞めてるよ?」って言いたくなる。

  • 官僚制的支配=専門教育

教育制度の大本に関する、現時のあらゆる議論の背後には、旧い「文化人」体「専門人」型の闘争が、ある決定的な箇所に伏在しているのである。

この闘争は、あらゆる公的および私的支配関係の官僚制化の抑止しがたい伝播と、不断に増大する専門知識の意義とに起因しつつ、いっさいの身近な文化問題にまで入り込んでいるのである。(ウェーバー1971 p360)

昔は教養人・文化人といえば専門といわれる分野以外の学問についても横断的な知識を有していたそうです。それが近代になって専門化と効率性が追求されるようになってから、自分の専門分野以外の知識はほとんど無いという専門家が増えてきたと。
中野先生は官僚でありながらイギリスに留学して博士号を取得されたそうですが、その際に経験した向こうの大学の実情についてお話されていました。

大学にも「官僚制的」な考え方が浸透してきていて、比較的高齢な教授陣は論文などほとんど書いたこともないような人がいるのに対して、若い人達が博士号を取ろうとすると、「最低でも2つ以上の論文を書く事」というような決まりがあるらしく、故にこれからというような研究者は(特に経済学に顕著との事)博士号を取得しやすいフォーマットに則って書くような習慣が横行しているとの事。
※このへんの事情は大学に行ったことがなく論文など書いたこともない私には想像しずらいので、上記の文章には多分に推測が混じってます。

ただ、論文など書いたこともなく、いつもは研究室に篭っているだけというような老齢の指導者でも、一旦気に入られて指導を受け始めると、その指導内容が大変に高度な内容である事に驚いたという事でした。

このような徒弟制度が無くなりつつあるために、ドイツやイギリスの大学では博士号が取りづらくなり、手軽に博士号を取りたがる人達が「産業化した経済学」の本場であるアメリカに行くようになっているとの事。

ものすごく端折って書いてますが、アメリカの経済学会というのはほとんど「経済学者の生産工場」と化しているようで、非凡な人間でも定型的な論文を書くことで簡単に博士号を取得できる状況との事でした。この経済学者という肩書きはそのまま「既得権益」となるため、外国から殺到するみたいですね。
竹中平蔵とかですかね。
「合衆国の主要な大学院は工場のように運営されており、品質管理が徹底した生産ラインを思い起こさせる」(Marion Fourcade 2009)

こうして大量生産された主流派経済学者が世界中に伝播する事によって、いろいろな弊害が起こっているのが現代社会という事です。

 

2.現代の官僚制的支配

組織経営-成果主義、マクドナルド化(G・リッツァー)

効率性、計算可能性、予測可能性、支配

現代のグローバル化した企業は「マクドナルド化」と言われる形態の企業経営が蔓延している。
誰が作っても同じ料理が作られるように徹底して効率性が追求され、店内の椅子は座りづらく回転率を向上させるのに貢献し、ドライブスルーによりお客は降車せずに商品を購入できる。=効率性

店舗・経営に関する成績から商品のレシピ・製造方法に至る全てが数値による管理によって行われ、把握可能となる。=計算可能性

マクドナルドの商品は誰が作ってもどこで購入しても同じ味である。期待を裏切ることが無い。=予測可能性

商品は固定化されていてそれぞれのお客による固有のオーダーは基本的に認められない。これは企業側が提供する商品構成にお客が従う以外に選択肢が無いという事になる。=支配

アメリカで発達したこれらの組織経営と成果主義はグローバル化によって世界中に輸出されている。

これらの特徴はまさに官僚制化であり、官僚制化とはグローバル化と極めて親和性が高いという事らしい。

市場-構造改革

政治-マニフェスト(「数値目標、期限、財源、工程表」)

民主党によるマニフェスト選挙は計算可能な数値による公約という事で一世を風靡し大勝したが、結果的にはそのほとんどが達成できずに大衆の支持を失い昨年の総選挙で大惨敗を喫した。

このマニフェストというのは、上記「数値による管理」という事から「官僚制化」そのものであって大衆が求めていたものである。
ただ、この「紋切り型」の公約には政治や外交における「主観的・外部的な要因発生を考慮していない」という大問題が内在しているため、そもそもこのマニフェスト通りに実現できると思うのが楽観的かつ思慮が足りないと思うべきである。

また、このマニフェストによる政治決定というのは即ち「マニフェストに書かれた数値目標を実現するために粛々と行政が処理を進めれば良い」という事に繋がり、それは議論や調整を本分とする政治家の職務自体を全否定するものに他ならない。要するに「マニフェストに書いてある事をやるだけなら政治家いらないじゃん」という事だ。

マスメディア・情報社会-わかりやすさ、ステレオタイプ

グローバル化=マクドナルド化

学問-主流派経済学

  1. 「人間は自己利益を追求するように行動する」という人間観
  2. 経済理論の数学的な定式化
  3. 統計データによる仮設の検証

アメリカの(グローバルな)「経済学産業」

Ex)計画経済、インフレ目標、ユーロ

現代の世界に蔓延している主流派経済学=新自由主義は上記3点の特徴を持っていると言われている。

以前に大学の経済講座を拝聴した際にも感じたが、空理空論としか思えない難解な数式を駆使して現実の経済を説明するというような事をしつこく行なっている教授がいた。
その講座には普通のおじさんやおばさん達が参加していたんだが、一人のおじさんが「その数式ってのは、明らかに現実の経済を反映してないし説明もできていないように感じるが、どうなの?」と質問されていて、回答に窮している様は滑稽という他無かった。

しかしながら、この「経済理論の定式化」というのが現在の経済学の「お約束」らしく、無理矢理にこの経済モデルを現実経済に当てはめたいがために、都合の悪い個別の事象を無視した方法論が蔓延している。

この「現実を無視」の最たるものが1.であって、自己利益の追求を目的としない行動を人間は取らないという前提らしい。もう笑うしかない。
これが本当であれば、他者利益のための行動(ボランティア・募金など)は行わず、経済・市場にも影響しないという事になってしまう。

そしてこの主流派経済学を根拠とした理想・理念に基いて構築された壮大な社会実験がヨーロッパ諸国の共通通貨による統合という、ユーロ・EUの存在である。
今日では、ギリシャ経済を始めとする債務危機の勃発により、文化も制度も歴史も違う異なる国家が共通の通貨や体制で結ばれるという理想論がいかに現実を無視した、経済危機に対して脆弱な体制を構築してしまったのかが問題となっている。

 

最後に参加者からの質問に答える形でアイヒマンの取った行動について触れられていた。

アイヒマンはドイツによるユダヤ人虐殺に関して数百万人を強制収容所へ移送し、その後裁判にかけられて死刑が執行された人物である。

ただ、このアイヒマンは当時のドイツにおいては現在で言う所の「官僚」に過ぎず、官僚として上司(政治決定)の命令に従ったまでであった。
これまで書いてきたように「効率性・合理性」を求めた大衆が「官僚制」を作り出した。
この官僚制による吏員制度は非人間的な存在を価値とされ、政治家や上司の決定に忠実に従う事を要求されてきた。
官僚や役所の職員が私情を交えて業務を遂行したら、それこそ公平や中立が侵されたといって大衆は批判してきたのである。
また、官僚、吏員にとっては私情を交えて調整や政治的活動を行う事ができない代わりに、政治家や上司の決定・命令した業務を遂行した結果が重大な問題を発生させたとしても、その責任は負わないという事で安心し、且つ忠実に業務を遂行する事が可能となったのである。

しかし、アイヒマンの裁判においてはこの前提が認められずに、極刑が執行される事となった。
これは官僚としては、「官僚は権利は与えられないにも関わらず、その結果の責任は負わなければならないのか。」という重大な問題を提起されたに等しく、非常に重大なテーマだとお話されていた。

 

総じて感じたのは、「大衆は本来求めていたはずの理想にも関わらず、時として真逆の制度・体制を支持したり批判したりする真に矛盾した存在なのだなぁ」ということだった。

「大衆民主社会」→官僚制化 =「非人間的」

=「グローバル化」

官僚的なものを批判するという事は、即ちグローバル化を批判する事につながるのだが、どこかの政党はこの矛盾した事を声を大にして世論を鼓舞し、あろうことかそのような矛盾だらけの政党を支持する大衆が存在するという始末だ。

日本はこんなんでこの先大丈夫なのかなぁと思ってしまうし、日本人はいつから、なぜこのような思慮に浅い大衆と化してしまったのかと知りたくなる。
中野先生もそのように思って「日本思想史新論」を書いたのだと思う。この本は古文が頻繁に引用されるので私にとっては極めて読みづらく理解しずらい本なのだが、もう一度読み返してみたいと思った。

 

以上、講義は90分間という短い時間だったので、まだまだ聞きたいという感じだった。

次回は横浜にて「混迷する世界情勢を読み解く」というタイトルで行われるとの事。先日に発売された「日本防衛論」を元にお話されるとの事で、絶対行くぞ!って感じです。

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